第49話 二人で、ひとつの帳簿をつける
季節は巡り、ライルが財務課で働きはじめて半年が過ぎた。あの十七枚の第七号様式は、エルナと二人がかりの奮闘の末、ついに三枚にまで減った。残りの欄は、絵とやさしい言葉で、誰でも迷わず埋められるようになった。王国中の人々が、その新しい様式を喜んだ。「これなら書ける」と。
ライルの業務改善の仕事は評判を呼んだ。彼は自ら各地を訪ね、人々がどこでつまずくのかを聞いて回った。剣を振るっていたころの行動力は、こんなところで活きた。机にかじりついているだけでは見えない現場の声。それをすくい上げて財務課に持ち帰る。エルナがそれを規程の言葉に翻訳し、ヴァロがわかりやすい書式に仕立てる。三人の息は見事に合っていた。
仲間たちも、それぞれの場所でたくましく生きていた。クロウは貧しい村々を回るうちに、いつしか村人たちのまとめ役のような存在になっていた。盗賊だった男が、今は人に頼られている。「柄じゃねえけどな」が口癖だったが、その顔は満ち足りていた。セリカは魔法学院で後進を育てながら、しおりの挿絵を描き続けた。彼女の温かい絵は、王国中の書類をやさしくした。ミラは故郷の教会で困った人と財務課をつなぐ橋渡しを続けた。「神は人を救う。ですが、書類もまた人を救うのです」が、彼女の新しい口癖になった。
時おり、五人はあの安宿の一室に集まった。旅を共にした仲間たちとエルナ。酒を酌み交わし、旅の思い出を語り合う。字の書けない御者のこと。亡き宿主の宿帳のこと。偏屈な薬師のこと。そして――転職した魔王のこと。「あいつ、今ごろどこの国でソフトを売ってるんだろうな」とライルが笑う。「きっと、どこかでまた誰かに、『万一の備えは』とか言われて困らせてるわよ」とセリカが返す。かつての宿敵すら笑い話の種になる。それが平和というものの形なのかもしれなかった。
ある夜のことだ。残業を終え、二人で財務課を出たとき、ライルはふと立ち止まった。「なあ、エルナさん」彼は夜空を見上げて言った。「思えば、変な縁だよな。俺とあんた。最初は領収書をなくした勇者と、それを突っぱねる財務官だった。なのに今は隣の机で、一緒に王国の書類と戦ってる」
「ええ、本当に」エルナも空を見上げた。「あの日、地下二階にあなたが来たとき。わたしはただ規程に従って、あなたの精算を突き返すだけのつもりでした。それが――こんな未来につながるとは。人生とはわからないものですね」「あんたが突き返さずに、一緒に考えてくれたからだ」ライルは言った。「あのとき、あんたがただの冷たい役人だったら。俺はあきらめて、報酬ももらえず、すごすご引き下がってた。でも、あんたは違った。決まりの中で、俺を助ける道を探してくれた。――あんたがいなけりゃ、何も始まらなかった」
エルナはしばらく黙っていた。そして、めずらしく自分から心の内を語りはじめた。「……わたし、孤児でした。財務課に拾われるまで、誰にも必要とされず生きてきました。数字を正しく扱うことだけが、わたしの価値だと思っていました。それ以外に、わたしには何もないと」彼女の声は静かだった。「でも、あなたと旅をして変わりました。わたしは数字だけの人間ではなかった。人の事情に向き合い、人を助けることができた。あなたが――わたしにそれを教えてくれたのです。わたしはただの財務官ではなく、『人を守る財務官』になれた。あなたのおかげで」
「いや」ライルは首を振った。「それは最初から、あんたの中にあったものだ。俺はただ、それを引っぱり出すきっかけになっただけさ。――それに、俺のほうこそあんたにもらってばかりだ。世界の本当の姿。書類のありがたさ。新しい生き方。全部、あんたが教えてくれた」彼は少し照れたように頭をかいた。「なあ、エルナさん。これからも隣にいてくれるか。仕事の相棒として。それから――その、なんだ。それ以上の相手としても」
エルナの頬がぽっと赤らんだ。いつもの無表情が初めて崩れた瞬間だった。彼女はしばらくうつむいていたが、やがて顔を上げ、まっすぐにライルを見て言った。「……それは業務命令でしょうか。それとも」「俺の願いだ」ライルは、はっきりと言った。「世界を救った褒美に、何がほしいかってずっと考えてた。爵位でも領地でも黄金でもなかった。――あんたとこれからも一緒にいることだ。それが俺の本当のほしかったものだ」
エルナはその言葉に目を潤ませた。誰にも必要とされなかった孤児の少女が。世界を救った勇者に、「隣にいてほしい」と望まれている。それはどんな報酬よりも、爵位よりも、彼女にとって価値のある言葉だった。「……謹んでお受けいたします」彼女は涙ながらに、しかしいつもの几帳面な口調で言った。「ただし――この約束には証文はいりません。口約束で十分です。なぜなら」彼女は微笑んだ。「これは経費ではありませんから。お金には換えられないもの。台帳には載らない、けれど何より確かなものですから」
ライルは声を上げて笑った。最後まで財務官らしい答えだった。だが、その言葉ほど彼女の気持ちをよく表すものはなかった。台帳には載らない、けれど確かなもの。それは二人が長い旅の中で何度も出会ってきた、あの人の優しさと同じ種類のものだった。二人は夜空の下、肩を並べて家路についた。地下二階で始まった奇妙な縁は、こうして温かい未来へとつながっていく。
その後、二人はささやかな祝いの席を設けた。仲間たちが駆けつけ、フェルゼン課長もザイデルもヴァロも顔を出した。クロウが、「とうとう観念したか、勇者!」と囃し立て、セリカが、「お似合いよ」と涙ぐむ。フェルゼン課長は、「……めでたい」とぶっきらぼうに、しかし本当に嬉しそうに言い、ザイデルは、「結婚にも当然、各種の届出が必要だ。手続きは滞りなく」と生真面目に釘を刺して、一同を笑わせた。地下二階の紙の海で出会った者たちが、こうして一つの温かい輪になっている。それはライルが剣で守ろうとした平和の、最もささやかで、最も確かな姿だった。
世界で一番地味な冒険は、その最も得難い宝物を最後に勇者にもたらしたのだった。物語はいよいよ、最後の一ページを迎える。




