第47話 ついに、報酬が支払われる
その日、ライルはもう一度、地下二階の財務課に呼ばれた。だが、その意味は最初に呼ばれたときとは、まるで違っていた。エルナの机の上には、一枚の書類が置かれていた。新しい仕組みのもとで、すべての領収書が検められ、計算され、人の手で判が押された最終の精算書だった。
「勇者ライル様」エルナは、いつもの平らな声で、しかしその奥に温かいものを込めて告げた。「経費精算がすべて完了いたしました。立替経費、金貨二百十二枚と銀貨三枚。全額、認められました。そして――保留されていた魔王討伐の報酬。こちらも本日、お支払いとなります」
彼女はもう一枚の書類を差し出した。そこには、目もくらむような金額が記されていた。世界を救った報酬。爵位。領地。そして莫大な黄金。三か月前、地下二階に呼ばれたとき、ライルが受け取るはずだったすべて。それが長い長い後始末の旅を経て、ようやく彼の手に戻ってきたのだ。
「……長かったな」ライルは、その書類を見つめてつぶやいた。「魔王を倒した日から、ずいぶん経った。あのときは、すぐにもらえると思ってたよ、報酬なんて」「お待たせして、申し訳ございませんでした」エルナが頭を下げる。「いや」ライルは首を振った。「あんたが謝ることじゃない。それに――待った甲斐はあったよ。この後始末の旅がなかったら。俺はただ報酬をもらって、それで終わりだった。世界の本当の姿も知らないまま」
彼は受け取った報酬の目録を、ぱらぱらとめくった。爵位。領地。黄金。確かに夢のような褒美だ。クロウが見たら、小躍りするだろう。だが、ライルの胸に湧き上がったのは、奇妙なほど静かな感情だった。「なあ、エルナさん」彼はぽつりと言った。「正直に言うと、今、この報酬を見ても、あんまり嬉しくないんだ。いや、ありがたいんだ。ありがたいんだが――」
「旅の思い出のほうが大切に思えるのですね」エルナが言葉を継いだ。ライルは、はっと彼女を見た。「……わかるのか」「わたしも同じですから」エルナは微笑んだ。「字の書けない御者。宿の跡継ぎ。偏屈な薬師。火竜の里の人々。あの一人ひとりとの出会い。それは、この金貨の山よりもずっと、わたしの宝物です。お金では決して買えないものでした」
そこへ、クロウ、セリカ、ミラの三人が駆け込んできた。報酬が出たと聞きつけたのだ。「やった、やったぞ! ついに金貨だ! 山分けだ!」クロウが目録を見て躍り上がった。だが次の瞬間、その目録の末尾に目を留めて、ぴたりと止まった。「……おい。なんだ、この『受領にあたっての注意事項』って細かい字の書類は」「報酬の受け取りにも規程がございます」エルナがすまして答えた。「税の申告。爵位に伴う義務。領地の管理責任。――一つずつご説明いたします。なお、すべて書類が必要です」クロウは、がっくりと肩を落とした。「世界救って、金もらうのにも書類かよ……」その絶望的な顔に、一同はどっと笑った。
「ところで、クロウ。あんたは、この金で何をするんだ」ライルが尋ねると、クロウは急に照れくさそうに頭をかいた。「……実はな。あの山小屋のおやじを捜し当てたんだ。干し肉を勝手にもらった、あの小屋の。代金をちゃんと払って、詫びてきた。じいさん、最初は面食らってたが……最後は笑って、また来いってな」彼はぶっきらぼうに言った。「だから、残りの金で、あの辺の貧しい村に、ちょっとした施しでもしようかと。柄じゃねえけどな」その言葉に、エルナが目を見開いた。あの現地調達を窃盗と指摘したとき、ふてくされていたあのクロウが。「立派です」と彼女は静かに言った。「いちいち感心すんなよ」とクロウはそっぽを向いたが、その耳は赤かった。だが、もう誰もその書類を恐れてはいなかった。三か月の旅で、彼らは知ったのだ。書類は敵ではない。正しく向き合えば、それは自分たちを守ってくれる味方なのだと。
二人はしばし黙って、見つめ合った。長い旅を共にした者だけが分かち合える思いが、そこにあった。報酬は確かに手に入った。だが、本当に得たものは、目録には書かれていない、もっと別のものだった。世界の広さ。人の優しさ。そして――隣にいる、この人の存在。
「ところで」エルナがふと、思い出したように言った。「報酬の受け取りにも手続きがございます。受領の確認書に、ご署名とご捺印を。それから、爵位の叙任手続き。領地の登記。――これがまた、なかなか書類が多うございまして」「……まだ書類があるのか」ライルは思わず天を仰いだ。だが、その顔は笑っていた。「いいさ。やるよ。あんたが手伝ってくれるなら、何枚でも」「もちろんです」エルナも笑った。「それが、わたしの仕事ですから」
こうして、世界を救った勇者の報酬は、三か月以上の時を経て、ようやくまっとうに支払われた。一枚の領収書もごまかさず。一つの手続きも飛ばさず。正しく、まっとうに。それはただ、報酬を受け取ること以上の意味を持っていた。世界を救った英雄が最後まで決まりを守り抜いた。その事実こそが、王国の根を何より強く支えるのだった。世界で一番地味な冒険は、その最初の目的を完全に果たした。だが、ライルにはもう一つ、決めねばならないことがあった。これからの自分の生き方だ。剣を置いたあと、自分は何になるのか。爵位を受け、領主として静かに暮らすこともできる。だが、ライルの心はなぜか、それを望んでいなかった。あの地下二階の紙の海。そこで出会った一人の財務官。そして、世界中で出会った名もなき人々の暮らし。――そのすべてが、彼の心に新しい道を指し示しているような気がしていた。
「エルナさん」ライルはふと尋ねた。「あんたはこれからどうするんだ」「わたしは財務課に残ります」エルナは即答した。「新しい仕組みを根づかせ、しおりを広め、困っている人を一人でも救う。やるべきことは山ほどございます」その目には迷いのない光が宿っていた。ライルはその横顔を見て、静かに微笑んだ。自分の進むべき道が、ようやく見えた気がした。それは爵位でも領地でもなかった。世界で一番地味な冒険は、その最後の選択へと近づいていく。




