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勇者、経費で落ちません  作者: みき
第1幕 国内編

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第46話 魔王、次の国へ旅立つ

 王国の財務改革が軌道に乗り、しおりも行き渡ったある日。魔王がライルたちのもとを訪ねてきた。いつもの仕立てのいい服。だが、その背には旅支度の大きな荷物があった。供はやはりガラン、ただ一人。


「お別れを言いに参りました」魔王は穏やかに微笑んだ。「王国での商売は、おかげさまで大成功。“マオウ・ソフト”は王国の新しい仕組みの要として根づきました。――ですが、世界は広い。事務処理に苦しんでいるのは、この王国だけではありません。隣の国も、その隣の国も。わたしは次の国へ参ります。世界中の書類仕事を救うために」


「次の国か」ライルは感慨深げに言った。「お前、本当に変わったな。世界を滅ぼそうとしてた男が、今度は世界中を救って回るのか」「ええ。ただし、今度は剣でも魔法でもありません」魔王は笑った。「会計ソフトとまっとうな商売で。――皮肉なものです。世界を滅ぼそうとしていたころより、今のほうがずっと多くの人に感謝されている。人を苦しめるより、人を助けるほうが性に合っていた。それにようやく気づいたのです」


 エルナが進み出た。「マオウさん。あなたには感謝してもしきれません。あなたのソフトがなければ、王国の改革はなし得ませんでした。それに――」彼女は少し言葉を選んだ。「あの商都で、わたしが自分の存在意義を見失いかけたとき。あなたは言ってくださいました。『機械にできるのは計算だけ。数字の向こうの人に向き合うのは、お前にしかできない』と。あの言葉に、わたしは救われました。道具に仕事を奪われるのではなく、道具を使いこなす。その考えが、すべての出発点になりました」


「いやいや」魔王は首を振った。「あなたは、わたしの言葉をはるかに超えていきましたよ。わたしはただ、『道具を使いこなせ』と言っただけ。だが、あなたは紙と機械を対立させず、両方を活かす道を見つけた。フェルゼン殿の四十年も、職員たちの未来も、誰一人切り捨てずに。――あれは、わたしにはできなかった。商人のわたしは、つい便利さばかりを売ろうとする。人の心の機微までは見えていなかった。あなたから学んだのは、わたしのほうです」


 そばに控えていたガランも、エルナに深々と頭を下げた。「エルナ殿。手前もお別れです。魔王様のお供をして、次の国へ参ります」彼は分厚い帳簿を抱え直した。「あなたと出会えて本当によかった。同じ数字に仕える者として、これほど誇らしい出会いはありませんでした。手前はこれからも几帳面に記録をつけ続けます。あなたが教えてくれた通り――記録は人を救うためにある、と心に刻んで」「ガランさん」エルナも頭を下げた。「あなたの几帳面さに、わたしは何度も助けられました。城の売店の記録も、魔王軍の未払いの帳簿も。あなたが記録を捨てない人で、本当によかった。――どうか、お元気で」二人の経理は固い握手を交わした。立場も種族も超えて、数字に誠実であろうとするその心で深く結ばれた二人だった。


 二人はしばし見つめ合い、それから互いに深く頭を下げた。かつて世界を滅ぼそうとした魔王と、その魔王に存在意義を救われた財務官。奇妙な、けれど確かな敬意が二人の間に流れていた。


「ライル殿」魔王は最後に、勇者に向き直った。「あなたとは二度出会った。一度目は敵として。二度目は……まあ、客と商人としてでしょうか」彼は愉快そうに笑った。「一度目は、あなたに討たれた。だが、あの敗北がなければ今のわたしはありません。世界を救うことの本当の意味を知ることもなかった。――礼を言います。わたしを討ってくれて。そして、討ったあともこうして対等に接してくれて」


「変なやつだな、お前は」ライルは苦笑した。「討ってくれてありがとう、なんて言う魔王がいるか」「元・魔王ですよ」魔王はにやりと笑った。「今は、ただのしがないソフトの営業マンです」


「ひとつ聞いていいか」ライルはふと真顔になった。「お前はなんで魔王になったんだ。最初からこうやって商売をしていればよかったじゃないか。なんで世界を滅ぼそうなんて思った」魔王はしばらく黙っていた。そして、遠い目で言った。「……わかりません。ただ、あのころのわたしは、力ですべてを思い通りにできると信じていた。世界をねじ伏せれば、何もかも手に入ると。――ですが、違った。力で奪ったものは何も残らなかった。今こうして商売で人に感謝されて、初めてわかったのです。本当に手に入れたかったのは、ねじ伏せた相手の恐怖ではなく――こうして誰かにありがとうと言われる、この温かさだったのだ、と」その言葉に、ライルは深くうなずいた。剣を交えた相手の、こんな本音を聞ける日が来るとは。


「……いいセカンドライフじゃないか」ライルは笑った。「ああ。最高のものです」魔王も笑った。


 二人は声を上げて笑い、そして固い握手を交わした。剣を交えた手と手が、今、友好のしるしとして握り合う。長い奇妙な因縁の、美しい結末だった。


「では、参ります」魔王は荷物を背負い直した。「もし、またどこかの国で事務処理に苦しんでいる人がいたら。そこにわたしは現れます。会計ソフトを引っさげて」彼はガランを伴い、城門へと歩きはじめた。その背中は、もう世界を脅かす魔王のものではなかった。世界を少しずつ便利に、やさしく変えていく一人の商人の背中だった。ライルとエルナは、その姿が見えなくなるまで見送った。


「行っちゃいましたね」エルナがぽつりと言った。「ああ」ライルがうなずいた。「でも、不思議と寂しくないな。あいつならどこへ行ってもうまくやるさ。――それに、また会える気がする。世界のどこかで」二人は空を見上げた。かつて瘴気に覆われていた空は、今どこまでも青く澄んでいた。世界で一番地味な冒険は、最大の宿敵との奇妙な因縁に温かい終止符を打った。残るはあとひとつ。この長い物語の本当の結末だけだった。世界を救った勇者と、一人の財務官のこれからの物語が。三か月前、地下二階の財務課で始まったすべて。その長い長い後始末の旅は、ようやく最後の一ページを迎えようとしていた。


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