第45話 誰にでも読める「しおり」が、できあがる
それから、季節が一つ巡った。王国の財務は、新しい仕組みのもとで見違えるように変わっていた。地下二階の紙の海は少しずつ片づき、職員たちの顔から、あのすり減ったような疲れが消えていた。計算は機械がこなし、人はそれを検める。誰もがつらい手作業から解放され、本当に大切な仕事に向き合えるようになっていた。
そして、ヴァロが責任者を務めるしおりの改訂も、ついに完成した。新しい『勇者のしおり』――いや、それはもはや勇者だけのものではなかった。『王国のしごと、はじめての手引き』。王国に関わるすべての人が迷わないための、やさしい手引きだった。
エルナは、そのできあがったばかりのしおりを手に取った。かつての難解なしおりとは、まるで違っていた。難しい言葉はやさしい言葉に置き換えられ、大切なことには絵が添えられていた。字の読めない人でも、絵を見ればわかるように。手続きの順番が、一つずつ迷わないように書かれている。「……素晴らしい」エルナは感嘆した。「これなら、あのはやて亭のご主人でもわかります。灯火屋の跡継ぎでも。火竜の里の人々でも。誰もつまずかない」
「お前のおかげだ」ヴァロが傍らで言った。彼の表情はすっかり穏やかになっていた。あのねじれたふてぶてしさは、もうどこにもなかった。「お前が旅で出会った人々の話を聞かせてくれた。字の書けない御者。お金を使わない里。――その一人ひとりを思い浮かべながら作った。『この人なら、どこでつまずくか』と。複雑さを知り尽くしたわたしだからこそ、その『つまずき』を一つずつ取り除けた」
「あなたの力です」エルナは微笑んだ。「複雑さを武器にしていたあなたが、その複雑さをほどく人になった。これ以上の罪滅ぼしはありません」ヴァロは照れたように目を伏せた。かつて人をつまずかせることで力を持っていた男が、今、人がつまずかないために力を尽くしている。それは彼にとって、初めて味わうまっすぐな誇りだった。
新しいしおりは王国中に配られた。そして、その最初の一冊は特別な場所へと届けられることになった。エルナとライルは、それを携えてもう一度あの旅の道をたどることにしたのだ。世話になった人々に、できあがったしおりを届けるために。
最初に訪ねたのは、はやて亭。あの字の書けない御者の老人だ。「おお、勇者さん! と、財務課のお嬢さん!」老人は二人を温かく迎えた。エルナが新しいしおりを見せ、絵で手続きがわかるようになったことを説明すると、老人は目を丸くした。「こりゃ、わしにもわかるぞ! 字が読めなくても、この絵を見りゃあ! いやあ、たまげた。お役所の紙が、こんなにやさしくなるとはなあ」彼はしわくちゃの顔をさらにくしゃくしゃにして喜んだ。
「あなたのおかげなのですよ」エルナは言った。「あなたが焼き印で領収書を作ってくださった。あのとき、わたしは気づいたのです。字が書けなくても、その人なりのやり方がある、と。それが、この新しいしおりの出発点になりました」老人はしばらくきょとんとしていたが、やがて誇らしげに胸を張った。「わしの焼き印が……王国のしおりを変えたのか。いやあ、長生きはするもんだなあ」その無邪気な喜びに、ライルもエルナも温かい気持ちになった。
老人は二人を宿に招き入れ、ささやかなもてなしをしてくれた。「今度は、ちゃんと領収書を書くからな」と得意げに、新しいしおりを片手に宿代の領収書を書いてみせる。絵を見ながら、一つずつ欄を埋めていく。日付、金額、但し書き。そして最後に、あの馬の焼き印をぺた、と。「どうだ! ちゃんと書けたぞ!」その誇らしげな顔に、エルナは胸がいっぱいになった。字の書けなかった老人が、今、自分の力で一枚の領収書を書き上げている。それはささやかな、けれど確かな変化だった。一人の人が新しいことができるようになる。世界は、そういう小さな一歩の積み重ねでよくなっていくのだ。
「ライル様」宿を出て、エルナはふと言った。「わたし、財務課に入ったころはこう思っていました。財務の仕事は、王都の地下二階で完結するものだ、と。紙と数字だけが相手だ、と。――ですが、違いました。財務の仕事の本当の相手は、こうして各地で暮らす一人ひとりの人々だったのです。あの方たちの暮らしをまっとうに回すために、わたしたちは数字を扱っている」彼女の声は晴れやかだった。「この旅で、わたしはようやく自分の仕事の本当の意味を知りました。それを教えてくれたのは――ライル様。あなたです」
こうして二人は旅の道をたどり直し、世話になった人々にしおりを届けていった。灯火屋の跡継ぎは立派に宿を切り盛りしていた。火竜の里は道が安全になり、町から客が訪れるようになっていた。薬師ドルフは王国の認可を受け、その薬はもう誰からも、「ただの甘い飲み物」とは呼ばれなくなっていた。旅で出会った一人ひとりの、その後の暮らしが確かに上向いている。それを見届けるたびに、エルナの胸は温かいもので満たされた。
「不思議ですね」帰り道、エルナはぽつりと言った。「最初は、たった一人の勇者の経費精算でした。領収書がない、という小さな問題。それが、こんなにも大きなものにつながった。王国の制度が変わり、たくさんの人の暮らしがよくなった。――小さな一枚の紙が、世界を少しだけやさしく変えたのです」「ああ」ライルもうなずいた。「魔王を斬ったときよりも、よっぽど世界を救った気がするよ。地味だけどな」
薬師ドルフのもとを訪ねたときのことだ。あの偏屈な老薬師は、王国の認可を受けた自分の薬を誇らしげに棚に並べていた。「見ろ、勇者さん。認可のお墨つきだ」彼はにやりと笑った。「あんたらが来てから、おかしな具合になったよ。証文を書かされ、認可を取らされ……だが、悪くない。わしの薬で命をつないだ旅人が、ちゃんとその薬代を取り戻せる。泣き寝入りせずに済む。――それがわかってからは、証文を書くのが面倒じゃなくなった。むしろ誇らしい」かつて「効けば、それでいい」と言い張った男が、今、記録を残すことの意味を心から理解していた。エルナはその変化に深く胸を打たれた。一人の頑固な職人の心まで、この旅は変えていたのだ。
二人は顔を見合わせて笑った。世界で一番地味な冒険は、そのまいた種を一つずつ花に変えながら、いよいよ本当の終わりへと近づいていく。




