第44話 妨害した男に、もう一度、椅子を
改革の陰で、一人の男が職を失おうとしていた。かつて勇者の旅を妨害した筆頭補佐官、ヴァロである。彼の妨害の事実は、すでに明るみに出ていた。複雑な規程を悪用し、私腹を肥やそうとした疑いもかけられていた。新しい仕組みができあがった今、彼の居場所は王国のどこにもなくなろうとしていた。
「あの男は、追放されるそうだ」ザイデルがエルナに告げた。「妨害に、不正の疑い。当然の処分だろう。複雑な規程を自分だけの武器にして、人を欺いてきた。――同情はできん」その声は厳しかった。規程を愛する者として、それを悪用したヴァロを彼は許せなかった。
だが、エルナは浮かない顔をしていた。「……ザイデル殿。ひとつ、確かめたいことがあります」彼女はヴァロの過去の仕事の記録を調べはじめた。妨害事件の前の彼が、補佐官としてどんな仕事をしてきたか。何日もかけて、古い記録をたどっていく。そして、ある事実にたどり着いた。
「やはり」エルナはつぶやいた。「ヴァロさんは、確かに複雑な規程を誰よりも知り尽くしている。ですが――その知識を悪事にだけ使っていたわけではありません。見てください。彼は過去に何度も、難しい案件を規程の知識で解決しています。誰も手に負えなかった複雑な紛争を、彼の規程の知識が解きほぐした例がいくつもあるのです」
ザイデルがその記録をのぞき込んだ。確かに、エルナの言う通りだった。ヴァロの規程に関する知識は本物だった。それは人を欺くためだけでなく、難しい問題を解決するためにも使われてきた。ただ――この旅の妨害で、彼はその力を間違った方向に使ってしまった。
「ザイデル殿」エルナは向き直った。「あなたは彼を許せないでしょう。当然です。ですが、思い出してください。あなたも、かつて一つの過ちを背負った。あの村のことを。――あなたは、その過ちを忘れず、二度と繰り返すまいと誓い、生き方を変えた。ヴァロさんにも、その機会を与えてはもらえませんか。過ちを悔い、生き方を変える機会を」その言葉に、ザイデルははっと息をのんだ。自分があの村の過ちを背負って、生き方を変えたように。ヴァロにも同じ道があるのではないか。「……ずるいな、エルナ殿」彼は苦笑した。「私の古傷を持ち出すとは。だが――一理ある。過ちを犯したことのない者などいない。問われるのは、その後どう生きるかだ」彼はしばらく考え、ぽつりと言った。「監査官として見届けよう。あの男が本当に変わるかどうかを」
エルナはヴァロのいる部屋を訪ねた。彼は荷物をまとめていた。追放を待つばかりの寂しい背中だった。「……何しに来た」ヴァロは振り返りもせず言った。「勝ち誇りに来たのか。お前の勝ちだ。わたしは追放される。満足か」
「いいえ」エルナは静かに言った。「あなたを引き止めに来ました」ヴァロがぴたりと手を止めた。「……何?」「あなたの規程の知識は本物です」エルナは続けた。「これだけ複雑な規程を知り尽くしている人は、王国にそういません。あなたはそれを間違った方向に使ってしまった。妨害に。人を欺くことに。――ですが、その力は本来、人を救うためにも使えるはずです」
「綺麗事を」ヴァロは吐き捨てた。「わたしは、お前の旅を潰そうとした。私利私欲で。今さら何を」「ええ。あなたは過ちを犯しました」エルナは認めた。「ですが、過ちを犯した者をただ追い出すだけでは何も生まれません。それこそ、もったいない。あなたの知識を王国から失うことのほうが、よほど損失です」彼女はまっすぐに彼を見た。「新しい仕組みには、複雑な規程をわかりやすく作り直す大仕事が残っています。あの難しすぎる『勇者のしおり』も作り直さねばなりません。――それには、規程を知り尽くした人の力がいる。あなたの力が」
ヴァロは信じられないという顔で、エルナを見た。「……わたしに規程をわかりやすく作り直せと? 複雑さを武器にしてきた、このわたしに?」「複雑さを知り尽くしているからこそ、それをわかりやすくほどけるのです」エルナは言った。「複雑な規程のどこが人をつまずかせるのか。あなたは誰よりもわかっている。なぜなら、あなたはその『つまずき』を利用してきたのだから。――その知識を、今度は逆に、人のつまずきをなくすために使ってください。それがあなたの罪滅ぼしになるはずです」
ヴァロは長いあいだ黙っていた。その手が震えていた。追放されると覚悟していた。誰からも見放されたと思っていた。なのに、自分が最も傷つけようとした相手が、自分の力を認め、もう一度椅子を差し出している。「……なぜだ」彼は絞り出すように言った。「なぜ、お前をあれほど苦しめたわたしを救おうとする」
「規程は人を裁くためではなく、人を守るためにある」エルナは静かに言った。「それは、過ちを犯した人すら守るためのものです。あなたをただ切り捨てるのは簡単です。ですが、それではあなたのような人をまた生むだけ。複雑な規程の陰で、ねじれてしまう人を。――わたしは規程を、そういう風には使いたくないのです」その言葉に、ヴァロの目からつうと涙がこぼれた。長年、複雑な決まりの陰で孤独にねじれてきた男の、初めて流す人間らしい涙だった。
「……一つだけ約束しろ」ヴァロは涙をぬぐい、絞り出すように言った。「もし、わたしがまた規程を悪い方に使おうとしたら。そのときは、お前が容赦なく止めてくれ。わたしは……一人だとまたねじれてしまう。弱い人間なのだ」「約束します」エルナは深くうなずいた。「ですが、もう一人ではありません。わたしも、ザイデル殿も見ています。それに――しおりを作り直す仕事は、一人ではできません。皆で知恵を出し合う仕事です。あなたは、もう複雑さを一人で抱え込む必要はないのです」その言葉に、ヴァロは何度もうなずいた。長年、複雑な規程をたった一人で抱え込み、それゆえに孤独にねじれていった男。彼をねじれさせていたのは、その孤独だったのかもしれない。仲間がいる。それだけで、人はまっすぐでいられるのだ。
こうして、ヴァロは追放を免れ、しおりを作り直す仕事の責任者に任じられた。複雑さを誰よりも知る男が、その複雑さをほどく仕事に就く。かつての妨害者は、王国の制度を誰にでもわかりやすくする改革の要となっていった。それもまた、誰も切り捨てなかったこの物語にふさわしい結末だった。
世界で一番地味な冒険は、敵対した者すら見捨てなかった。それは、エルナという財務官のたどり着いた、規程の最も深い使い方だった。




