第43話 魔王軍にも、未払いの経費が残っていた
新しい仕組みが動きはじめて、しばらく。エルナのもとに思わぬ相談が舞い込んだ。相談に来たのは、経理魔物のガランだった。彼はいつになく深刻な顔で、分厚い帳簿を抱えていた。
「エルナ殿。折り入ってご相談が」ガランは頭を下げた。「実は……魔王軍の解散の後始末で困っております。魔王軍にも未払いの経費が残っているのです。当時、出入りしていた商人たちへの支払い。傷ついた魔物の療養費。――組織は解散しましたが、借りは残ったまま。手前は経理として、これを放っておけません」
エルナはその帳簿を受け取り、目を通した。確かに、几帳面につけられた帳簿には、いくつもの未払いが記されていた。魔王城に食料を納めていた農家。武具を修理していた鍛冶屋。魔物の傷を診ていた薬師。世界を滅ぼそうとした組織にも、それを支える普通の人々がいて、その人々への支払いが滞ったまま組織が消えてしまったのだ。
「立派な心がけです」エルナは感心した。「組織が解散すれば、借りもうやむやにする者がほとんどです。ですが、あなたはそれをきちんと清算しようとしている。――ですが、ガランさん。一つ問題が。魔王軍はすでにありません。支払う主体が存在しないのです。誰がその借りを返すのですか」
「それでございます」ガランは肩を落とした。「魔王様にご相談したところ……『私の今の商売の利益から少しずつ返していこう』と、おっしゃってくださいました。ですが、それではいつ返し終わるかわかりません。商人たちはもう何年も待っているのです」
エルナはしばらく考え込んだ。これは難しい問題だった。すでに消滅した組織の負債。それを元・首領が個人の商売で肩代わりする。美しい話だが、現実には何年もかかる。そのあいだ待たされる商人たちの暮らしはどうなるのか。
「一つお尋ねします」エルナは帳簿のある一行を指した。「この、『農家ホルス、食料代、未払い、金貨十二枚』。これは魔王軍に食料を納めていた、ということですね。――その農家は好んで魔王軍に納めていたのですか。それとも」「いいえ」ガランは首を振った。「脅されて、です。当時、魔王城の周辺の農家は、作物を魔王軍に差し出さねばなりませんでした。逆らえば村を焼かれる。皆、泣く泣く納めていたのです。せめてもと、手前は代金を払うよう進言し続けましたが……軍の財政が傾くにつれ、払えなくなっていきました」
「では、その農家は二重に苦しんだのですね」エルナの声に憂いがにじんだ。「魔王軍に作物を奪われ、その代金すらもらえなかった。――これは、ますます放っておけません。被害者を救うのが規程の役目です」彼女はぐっと唇を引き結んだ。脅されて奪われ、踏み倒された人々。その帳簿の一行一行の向こうに、苦しんだ暮らしが見えた。旅で培った、「数字の向こうの人を見る目」が、ここでも彼女を突き動かしていた。
そのとき、相談を聞いていたライルが口を開いた。「なあ、エルナさん。一つ思ったんだが」彼は頭をかいた。「魔王軍が暴れてた地域って、王国も討伐軍を出してただろう。その地域の復興は王国の仕事だよな。だったら――魔王軍に品物を納めてた商人たちも、ある意味、その地域の被害者だ。王国の復興支援の枠でなんとかならないのか?」
エルナの目がはっと見開かれた。「……ライル様。それは」彼女は急いで規程集をめくった。「魔王被害地域の復興支援規程。確かにございます。『魔王軍の活動により、経済的損害を被った者への救済』。――魔王軍に代金を踏み倒された商人も、これにあてはまるかもしれません。魔王軍の活動の結果、損害を受けたのですから」
「では、王国が肩代わりできるのか?」
「単純にはいきません」エルナは慎重に言った。「ですが、道はあります。こうしましょう。まず、ガランさんの几帳面な帳簿で、『誰にいくら未払いがあるか』を正確に証明します。次に、それを復興支援の申請として王国に提出する。魔王軍の負債をそのまま肩代わりするのではなく、『魔王被害の救済』として商人たちに王国から支払う。――ガランさんの完璧な記録があれば、これは通せます」
ガランの顔がぱっと明るくなった。「そんな道が……! では、手前のこの帳簿が役に立つのですか」「立ちます。大いに」エルナは微笑んだ。「あなたが几帳面につけ続けた、この帳簿。それがなければ、誰にいくら未払いがあるかもわからず、救済のしようがありませんでした。あなたの四十年の几帳面さが商人たちを救うのです。――魔王軍の経理が巡り巡って、王国の復興支援につながる。なんとも不思議なご縁ですね」
こうして、ガランの悩みも解決へと向かった。後日、魔王被害地域の復興支援として、未払いの代金は王国から商人たちへ支払われることになった。何年も待たされていた農家も、鍛冶屋も、薬師も、ようやく報われたのだ。彼らは口々に、「まさか、魔王軍のツケがこんな形で返ってくるとは」と驚き、そして感謝した。世界を滅ぼそうとした組織の後始末すら、誠実な記録と規程の知恵でまっとうに片づける。それもまた、世界で一番地味な冒険のもたらした小さな、けれど確かな救いだった。
「ありがとうございました」ガランは帰り際、深々と頭を下げた。「エルナ殿。同じ数字に仕える者として、あなたから学ぶことばかりです。記録は、ただつけるだけではない。それを人を救うために使う。――手前も、まだまだ精進が足りません」「いいえ」エルナは首を振った。「あなたの几帳面な帳簿がなければ、何もできませんでした。記録を残してくれたあなたの誠実さが、すべての出発点です」二人の経理が立場を超えて、固い握手を交わした。
その後、噂を聞きつけて、元・四天王たちもガランのもとを訪ねてきた。保険営業のバルゴ、役所窓口のリネア、コンサルのドルク、実演販売のセズ。「ガラン、お前、王国を巻き込んで魔王軍のツケを返してるんだってな」バルゴが豪快に笑った。「相変わらず几帳面な奴だ。だが――悪くない。あのころ世話になった商人たちにちゃんと報いる。それでこそ、元・魔王軍の面目が立つってもんだ」彼らはそれぞれ、わずかながら自分の稼ぎから、返済の足しにと金子を差し出した。かつて世界を滅ぼそうとした者たちが、今、転職先の稼ぎから昔の借りを返そうとしている。その光景に、ライルは胸が温かくなった。「悪党にも悪党なりの筋ってもんがあるんだな」と彼は笑った。
世界で一番地味な冒険は、敵味方の垣根すら越えて、まっとうな数字の輪を静かに広げていくのだった。




