第40話 どちらか一つではない、第三の道
それから数日。エルナは、ほとんど眠らなかった。フェルゼン課長の三つの懸念。職員たちの未来。魔王のソフトの便利さ。そのすべてを紙の上に書き出し、にらみ続けた。便利さと確かさ。新しさと古き良きもの。それを両立させる道は、本当にないのか。
ある夜、ライルが夜食を差し入れに財務課を訪ねると、エルナは机に突っ伏していた。周りには、書きかけの紙が山のように散らばっている。「根を詰めすぎだ」ライルは、温かいスープを置いた。「少し休めよ。あんた一人で背負う問題じゃない」
「……ライル様」エルナは、顔を上げた。その目は疲れていたが、奥に光があった。「わたし、ずっと考えていたのです。あの旅のことを。字の書けない御者。お金を使わない里。偏屈な薬師。――あの旅で、わたしは何をしていたか」「何をしてたんだ?」「機械にはできないことです」エルナは言った。「相手の事情に向き合い、その人に合った道を規程の中から探し出す。それが、わたしの仕事でした。――そして、気づいたのです。このソフトの問題も、まったく同じだと」
彼女は、一枚の紙をライルに見せた。そこには、彼女が何日もかけてたどり着いた、ひとつの考えが記されていた。「便利さを取るか。確かさを取るか。――わたしたちは、ずっとそう問うていました。ですが、それが間違いだったのです。問うべきは、こうでした。『便利さと確かさを、どう組み合わせるか』」
「組み合わせる?」
「はい」エルナの声に力がこもった。「魔王のソフトに計算をさせます。膨大な集計や分類は、機械が一瞬でこなす。職員たちは、そのつらい手作業から解放される。――ですが、機械が出した答えを、そのまま信じはしません。最後は必ず、人の目で確かめ、人の手で判を押す。フェルゼン課長のおっしゃる通り、『中で何をしているか』を、人が検められる仕組みにするのです」
ライルは、はっとした。「つまり……機械が下書きをして、人が清書するみたいなもんか」「まさに、その通りです」エルナは、うなずいた。「機械は、あくまで道具。最後に責任を持つのは人。そうすれば、職員は楽になり、計算違いも減る。けれど、人は数字を考える力を失わない。記録も、機械の中だけでなく、紙にも残す。機械が壊れても、紙が残る。――フェルゼン課長の三つの懸念は、すべて解けます」
「それだけではありません」エルナは、さらにもう一枚の紙を広げた。「職員たちのことも考えました。計算を機械に任せれば、年老いた職員たちは居場所を失うのでは、と。――ですが、逆です。彼らこそ、長年の経験で、『この数字はおかしい』と勘が働く。機械が出した答えを最後に検める役目。それは、若い者にはできません。長年、数字と向き合ってきたベテランにしかできないのです。機械の導入は、彼らの経験を奪うのではなく――むしろ、最も大切な最後の砦にするのです」
ライルは、唸った。「なるほどな。つまらない計算は機械にやらせて、長年のベテランには、『目を光らせる』っていう一番大事な仕事を任せるってことか」「はい。誰も仕事を奪われません」エルナは、うなずいた。「むしろ、つらい作業から解放されて、もっと人にしかできない仕事に専念できる。――これは、誰かが損をする話ではないのです。皆が、今より少しずつ楽になり、少しずつ大切な仕事に向き合える。そういう道なのです」
それは、見事な答えだった。便利さを取れば、確かさが失われる。確かさを守れば、便利さが得られない。誰もが、その二択で悩んでいた。だが、エルナは、その二択そのものを乗り越えてみせたのだ。両方を組み合わせ、それぞれの良いところだけを活かす第三の道。それは、彼女が旅で学んだことの集大成だった。一見、相容れないものの中に、共に立てる道を探す。字の書けない御者にも、領収書を作る道があったように。
「すごいな、あんた」ライルは、心から感嘆した。「魔王とフェルゼン課長。どっちも譲らなかった。なのに、あんたは、どっちも勝たせる道を見つけた。どっちも否定しないで」「いいえ」エルナは、首を振った。「まだ、考えただけです。これをフェルゼン課長に認めてもらい、魔王にソフトをその形に作り変えてもらわねばなりません。どちらも頑固な方々です。一筋縄ではいきません」だが、その声は確信に満ちていた。「ですが――やってみる価値はあります。これは、誰かが負ける戦いではない。皆が勝てる道なのですから」
ライルは、温かい気持ちでその横顔を見ていた。地下二階で初めて会ったときの、あの冷たく無表情だった財務官は、もうどこにもいなかった。旅を経て、人の事情に向き合い、対立する者たちの間に立ち、共に立てる道を探す。彼女は、いつのまにか、王国で最もしなやかで強い財務官になっていた。「あんたなら、きっとできる」ライルは言った。「俺も手伝う。魔王の説得も、フェルゼン課長の説得も。一人じゃない」
「ライル様」エルナは、ふと手を止めて言った。「お礼を言わせてください。この考えにたどり着けたのは、あの旅があったからです。あなたと世界中を歩いた、あの三か月。一人ひとりの事情に向き合った、あの日々がなければ。わたしは、今も机の上だけで、『どちらか一つ』と決めつけていたでしょう」彼女は、まっすぐにライルを見た。「あなたは、わたしを地下二階から連れ出してくれました。そして、世界の広さを教えてくれた。――この答えは、半分はあなたのものです」そのまっすぐな感謝に、ライルは、柄にもなく照れて頭をかいた。「いや、俺は、ただ隣を歩いてただけだ。答えを見つけたのは、あんたの力だよ」二人は、しばし見つめ合い、それから、どちらからともなくふっと笑った。長い旅を共にした者だけが分かち合える、温かな空気が、そこにあった。
エルナは、その言葉にほんの少し微笑んだ。冷めかけたスープを二人で分け合いながら、夜は静かに更けていった。世界で一番地味な冒険は、対立を乗り越えるひとつの答えを、ついに見つけ出したのだった。あとは、それを頑固な二人に認めさせるだけ。だが、それは決して易しい道ではなかった。魔王は、自分のソフトに絶対の自信を持っている。「人の手で検める」という一手間を加えることを嫌がるかもしれない。フェルゼンは、そもそも機械を信用していない。「半分だけ取り入れる」という中途半端を嫌うかもしれない。どちらも譲らぬ頑固者。その二人を同じ卓に着かせ、ひとつの答えにうなずかせる。それは、魔王を剣で討つのとはまた違う。けれど、それに勝るとも劣らぬ難しさだった。だが、エルナの目に、もう迷いはなかった。最後の説得が始まろうとしていた。




