第39話 課長が、紙とハンコを守り抜く、本当の理由
御前会議は、その日、結論を出さなかった。王は、「双方の言い分、しかと聞いた。しばし、考える時をもらおう」と告げ、判断を保留した。会議は、いったんお開きとなり、魔王は、「では、よい返事をお待ちしております」と優雅に一礼して、城を辞した。
その夜。エルナは、どうしても確かめたいことがあって、財務課の最奥の机を訪ねた。フェルゼン課長は、いつものように、一人、遅くまで判を押し続けていた。とん、とん、と、変わらぬその音。エルナは、しばらくその背中を見ていたが、やがて静かに声をかけた。
「課長。なぜ、そこまで紙とハンコにこだわるのですか。――いえ、本当はわかっているのです。あなたは、ただの頑固な守旧派ではない。あの三つの理由は、すべて的を射ていた。ですが、その奥にもっと別の理由があるように、お見受けします」
フェルゼンの判を押す手が止まった。彼は、しばらく黙っていたが、やがて、ぽつりと語りはじめた。「……お前は、わしが財務課に入ったころのことを知るまい。もう四十年も前のことだ」彼の声は、いつもの厳しさとは違う、遠い響きを帯びていた。「当時の財務は、ひどいありさまだった。記録はいいかげん。計算はどんぶり勘定。誰も数字をまじめに扱わなかった。その結果――王国は、一度、財政が破綻しかけた。民から集めた税が、どこへ消えたのか、誰にもわからなくなったのだ」
エルナは、息をのんだ。王国の財政破綻の危機。歴史の闇に葬られた、その出来事を、彼女もわずかに聞いたことがあった。
「多くの民が苦しんだ」フェルゼンは続けた。「税が足りず、橋が落ちても直せなかった。飢えた村に施しを送れなかった。すべては、財務が数字をまっとうに扱わなかったからだ。――わしは、そのとき誓った。二度とこんなことを起こさぬ、と。一枚の紙も、おろそかにせぬ。一つの判も、いいかげんに押さぬ。人の目で、人の手で、一行ずつ確かめる。それだけが、国の数字を守る道だと」
彼は、手元の判を見つめた。何十年も握り続けて、すっかり手に馴染んだ、その判を。「この紙とハンコは、わしの四十年の戦いの跡だ。一枚ずつ確かめてきた。だからこそ、王国の財務は二度と破綻しなかった。――それを、得体の知れぬ機械に明け渡せと言うのか。中で何をしているかもわからぬ、あの水晶の板に。わしにはできぬ。あの機械を入れた瞬間、わしの四十年が否定される気がするのだ」
「ひとつ、お見せしたいものがある」フェルゼンは立ち上がると、奥の古びた棚から、一冊のぼろぼろの帳簿を取り出してきた。表紙はすり切れ、ページは黄ばんでいる。「これは、わしが財務課に入って最初につけた帳簿だ。四十年、捨てずに取ってある」彼は、それを愛おしそうになでた。「破綻のあとの立て直しの記録だ。一行ずつ、震える手で書いた。間違えれば、また民が苦しむ。その恐ろしさを噛みしめながら。――この一冊が、わしの原点だ。紙だからこそ、四十年経った今も、こうして開ける。あのころのわしの覚悟が、ここに残っている」
エルナは、その帳簿を見せてもらった。黄ばんだページに、几帳面な、しかし、まだどこか若々しい筆跡で、ぎっしりと数字が刻まれていた。一行ごとに込められた緊張と誠実さが、四十年の時を越えて伝わってくる。それは、ただの数字の記録ではなかった。一人の若き財務官が、二度と民を苦しめまいと誓った、その決意の結晶だった。「……美しい帳簿です」エルナは、思わずつぶやいた。「課長。これは、機械には決して生み出せないものです。あなたの覚悟が宿っている」
エルナは、その言葉に胸を突かれた。フェルゼンの頑なさ。それは、保身でも惰性でもなかった。かつて、財務のいいかげんさが民を苦しめた。その痛みを誰よりも知るからこその頑なさだった。彼もまた、ザイデルと同じだったのだ。過去の痛ましい記憶を背負い、二度と繰り返すまいと、自分なりのやり方で戦い続けてきた、一人の男。
「課長」エルナは静かに言った。「あなたの四十年は、決して否定されません。むしろ――あなたが紙とハンコで守り抜いてくれたからこそ、今の王国の財務があるのです。それは、まぎれもない事実です」彼女は、まっすぐに続けた。「ですが、ひとつだけ。あの機械が恐ろしいのは、『中で何をしているか、見えない』からだと、おっしゃいました。――もし、それが見えるようになったら。どうですか。機械がどう計算したのか、人の目で確かめられるようになったら。それでも、あなたは反対なさいますか」
フェルゼンの眉が動いた。「……どういう意味だ」「まだ、わたしにもはっきりとはわかりません」エルナは、正直に言った。「ですが、感じるのです。便利さと確かさ。新しさと古き良きもの。それは、本当はどちらか一つを選ぶものではないのではないか、と。あなたの守ってきたものと、あの機械の便利さ。その両方を活かす道が、どこかにあるのではないか、と」彼女は、深く頭を下げた。「少し、考える時間をください。わたしは――あなたの四十年も、職員たちの未来も、どちらも守りたいのです」
「実は」エルナは、思いきって打ち明けた。「わたしも、あの機械を初めて見たとき、足元が崩れる思いがしました。十年かけて身につけた技を、一瞬で肩代わりされる。わたしの生きてきた意味が、消える気がしたのです。――ですが、ある人に言われました。『機械にできるのは、計算だけ。数字の向こうの人に向き合うのは、お前にしかできない』と」彼女は、フェルゼンを見た。「課長。あなたの、その覚悟も、きっと同じです。機械が計算を肩代わりしても、『二度と民を苦しめまい』という、あなたの覚悟までは、機械には引き継げません。その覚悟こそ、王国の財務の本当の背骨なのです」
フェルゼンは、その言葉を静かに噛みしめていた。長年、誰にも語らなかった自分の原点。それを、この若い財務官は、まっすぐに受け止め、そして、その値打ちを認めてくれた。彼の厳しい目元が、ほんの少しゆるんだ。「……不思議なものだ。わしの四十年を否定しに来た、あの機械の話から、お前とこうして、財務の本当の意味を語り合うことになるとはな」
フェルゼンは、長いあいだエルナを見ていた。そして、ふっと表情をやわらげた。「……お前は、変わった財務官だ」彼は、つぶやいた。「規程を覚えるだけの優等生かと思っていた。だが、お前は、規程の奥にある、人の心まで見ようとする。――いいだろう。お前の考えを聞かせてみろ。ただし、わしを納得させられねば、あの機械は断じて入れぬ。それが条件だ」エルナは、深くうなずいた。彼女の胸の中で、ひとつの考えが、おぼろげに形をなしはじめていた。便利さと確かさを両立させる道。それは、もしかしたら、この対立そのものを乗り越える答えになるかもしれなかった。世界で一番地味な冒険は、最後の難問へと向かっていく。




