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勇者、経費で落ちません  作者: みき
第1幕 国内編

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第38話 魔王、王国に会計ソフトを売り込む

 魔王は、堂々と玉座の間に現れた。仕立てのいい服に、革の鞄。供は、几帳面な経理魔物のガラン、ただ一人。かつて世界を震え上がらせたその姿を、衛兵たちは槍を構えて取り囲んだ。だが、魔王は、まるで意に介さず、王の前に進み出ると、優雅に一礼した。


「お初にお目にかかります、国王陛下」その声は、穏やかで、よく通った。「かつて貴国と敵対しておりました、マオウと申します。ですが、本日は戦に参ったのではございません。商談に参りました」彼は、鞄から、あの水晶の板を取り出した。「我が社のクラウド会計ソフト“マオウ・ソフト”。これを王国に、ぜひ導入していただきたく」


 玉座の間がざわついた。倒したはずの魔王が、商人として王国に商品を売り込みに来る。前代未聞の出来事だった。王は、警戒しつつも興味を引かれたようだった。「会計ソフトとな。それは、何をするものだ」


「百聞は一見に如かず。ガラン」魔王が目配せをすると、ガランが水晶の板を操作した。すると、板の上に、王国のある一年分の帳簿が丸ごと映し出された。膨大な数字の羅列。それが、魔王の指の動きひとつで費目別に分類され、合計され、瞬く間に美しい一覧表へと姿を変えていく。「ご覧の通り」魔王は微笑んだ。「これまで、何十人もの財務官が何か月もかけていた年間の集計。それが、この通り――数分で片づきます。計算違いは起きません。不正も、たちどころに見つかります」


 大臣たちから、どよめきが上がった。無理もない。王国の財務は、膨大な紙の帳簿と、何十人もの職員の手作業で辛うじて回っていた。それが、この水晶の板一台で片づくというのだ。「素晴らしい!」一人の大臣が、思わず声を上げた。「それがあれば、財務の仕事がどれほど楽になることか。陛下、これは、ぜひ導入すべきです!」


 ライルは、その光景を複雑な思いで見ていた。あの水晶の板の力は、すでに商都で目の当たりにしている。三か月、自分とエルナが苦しみ抜いた精算が、数分で片づいたあの瞬間を。便利なのだ。恐ろしいほど。もし、これが王国にあれば。あの地下二階の紙の海で、来る日も来る日もペンを走らせる職員たちは、どれほど救われることか。だが――同時に、彼の胸には、あの旅で出会った紙の温もりも刻まれていた。御者の焼き印。宿主の宿帳。薬師の証文。あれもまた、機械には決して生み出せない、人の手のぬくもりだった。便利さとぬくもり。どちらかを選ばねばならないのか。ライルには、まだ答えが出せなかった。


 エルナもまた、誰よりも揺れていた。商都で、自分の十年が機械に肩代わりされる衝撃を味わい、そして魔王の言葉に救われた。「計算は機械に任せ、あなたは人に向き合えばいい」と。その言葉は本当だ。だが――王国の財務課には、彼女のように人に向き合える者ばかりがいるわけではない。ただ、黙々と計算だけを生きがいにしている年老いた職員もいる。その人たちから計算を取り上げたら。彼らは、どこに居場所を見いだせばいいのか。エルナの心は、賛成と反対のはざまで激しく揺れていた。


 だが、その賛同の声を断ち切るように、一人の男が進み出た。財務課長、フェルゼンだった。彼は、針のように細い眼鏡の奥から、その水晶の板を、まるで汚らわしいものでも見るように、にらみつけていた。


「……お待ちを、陛下」フェルゼンの声は、低く、しかし玉座の間によく響いた。「その得体の知れぬ機械を、王国の財務に入れるなど。断じてなりませぬ」


「ほう」魔王がフェルゼンに向き直った。「これは、これは。王国財務の要とお見受けする。なぜ反対なさる。理由をお聞かせ願えますかな」


「理由は、いくつもある」フェルゼンは毅然と答えた。「第一に、その機械が本当に正しく計算している保証は、どこにある。中で何をしているのか、誰にも見えぬ。我らの手書きの帳簿は、一行ずつ人の目で確かめられる。だが、その水晶の板の中は闇だ。間違えていても、誰も気づけぬ」


「第二に」彼は続けた。「その機械が壊れたら、どうする。我らの帳簿は紙だ。百年前の記録も、紐解けばそこにある。だが、その機械が、ある日突然動かなくなれば。中の記録は、すべて消える。国の財務の記憶が、一瞬で失われるのだ」


「そして、第三に」フェルゼンの声に力がこもった。「便利すぎることは危うい。人が計算をしなくなれば、人は数字を考えなくなる。機械が出した答えを、ただ鵜呑みにするようになる。――数字を自分の頭で考えぬ財務官など、財務官ではない。その機械は、人を楽にする代わりに、人を馬鹿にする」


 玉座の間が静まり返った。フェルゼンの言葉は、どれも頑迷な守旧派(しゅきゅうは)の戯言とは片づけられない重みがあった。四十年、紙とハンコで王国の財務を守り抜いてきた男の、揺るぎない信念だった。魔王は、その反論を感心したように聞いていた。「……なるほど。さすが、王国財務の要だ。鋭いご指摘ばかりだ」彼は微笑んだ。だが、その目には、商人としての闘志が燃えていた。「ですが、そのすべてにお答えできます。順番に参りましょうか」


 ライルは、はっとしてエルナを見た。フェルゼンの三つの理由。それは、奇妙なことに、エルナが旅の中でずっと大切にしてきたことと、根っこでつながっていた。中で何をしているか見えること。記録が消えずに残ること。人が自分の頭で考えること。――フェルゼンは、頑固な守旧派などではなかった。彼もまた、エルナと同じように、「数字は人の手でまっとうに扱われるべきだ」と信じている一人だったのだ。


「エルナさん」ライルは、小声でささやいた。「あんた、どっちの味方なんだ。魔王のソフトは便利だ。あんたも商都で助けられた。でも、フェルゼン課長の言うことも……」「……わかりません」エルナは正直に答えた。その顔は、苦しげにゆがんでいた。「どちらも正しいのです。だからこそ、苦しい。便利さを取れば、紙の温もりと人の考える力が失われる。古きを守れば、職員たちはいつまでも重荷に苦しむ。――この二つは、本当にどちらか一つしか選べないのでしょうか」彼女のその問いこそが、この対決の本当の争点だった。


 こうして、玉座の間で思いがけぬ対決が幕を開けた。紙とハンコの守護者、フェルゼン。対するは、会計ソフトを引っさげた元・魔王。便利さと確かさ。新しさと古き良きもの。そのどちらが、王国の未来にふさわしいのか。ライルとエルナは、その火花散る論戦を固唾をのんで見守った。魔王を剣で倒したあの戦いとは、まるで違う。だが、これもまた、王国の行く末を左右する、もう一つの決戦だった。世界で一番地味な冒険は、その最終章へと突入していく。


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