第36話 御前会議の前夜、四人で語った夜のこと
御前会議の前夜。一行は、王都の安宿の一室に集まっていた。今度こそ、領収書をきちんともらった宿だ。窓の外には、王城が月明かりに白く浮かんでいる。明日、あの城の玉座の間で、すべてが決まる。誰もが、それぞれの思いを胸に抱えていた。
「思えば、長い旅だったなあ」クロウが寝台にごろりと横になって、つぶやいた。「魔王を倒す旅も三か月。領収書を集める旅も三か月。同じ三か月でも、ずいぶん中身が違ったぜ」「ほんとね」セリカが笑った。「魔王を倒す旅は、毎日命がけだった。でも、こっちの旅は……なんだか、毎日、人の優しさに触れてた気がする。字の書けないおじいさん。宿の跡継ぎ。偏屈な薬師さん。みんな、いい人たちだった」
「神は」ミラが静かに言った。「わたしたちに、二つの旅を与えられたのかも、しれません。一つは、世界を救う旅。もう一つは……世界を知る旅。剣を振るうだけでは見えなかった、人々の暮らし。そのひとつひとつに触れる旅。わたしは、こちらの旅で初めて、自分が何のために人々を救いたかったのかを思い出しました」
ライルは窓辺に立って、月を見ていた。「……俺は、最初、納得がいかなかった」彼は、ぽつりと言った。「世界を救ったのに。報酬をもらうどころか、領収書がないって責められて。なんて理不尽な世界だと、思った。剣で魔王を斬るほうが、よっぽど簡単だってな」彼は振り返り、仲間たちを見た。「でも、今は思う。この旅がなかったら、俺は世界を半分しか知らないままだった。世界を救うってのは、魔王を斬ることだけじゃなかったんだ。その後、人々がまっとうに暮らしていける仕組みを守ること。それも、ぜんぶひっくるめて、世界を救うってことだったんだな」
部屋の隅で、エルナが静かに聞いていた。彼女もまた、この旅で大きく変わった一人だった。窓から差し込む月明かりが、彼女のいつもの無表情をやわらかく照らしていた。旅の前の彼女なら、こんな夜、輪に加わることもなく、一人、帳簿に向かっていただろう。だが今、彼女は自然と四人の輪の中にいた。「わたしは」彼女は口を開いた。「ずっと、机の上だけで数字を扱ってきました。領収書の向こう側に、どんな人がいるのか。考えたこともありませんでした。ですが、この旅で、一枚の領収書には必ず、それを書いた人の人生が宿っていることを知りました。焼き印に込められた誇り。宿帳に隠された真心。証文に刻まれた四十年。――わたしは、これからは、数字の向こう側にいる人を見られる財務官になりたい」
「もう、なってるさ」ライルは笑った。「あんたは、もう立派にそういう財務官だ。この旅のどの一枚も、あんたがその人の事情に向き合ったから取れたんだ。机の上だけの役人なら、とっくに、『無理です』で終わってた」その言葉に、エルナはほんの少し頬を赤らめ、目を伏せた。
「そういえば」セリカが、ふと思い出したように言った。「あの魔王、本当に王都に来るのかしら。『マオウ・ソフトを王国に売り込みに行く』なんて、言ってたけど」「来るだろうな」ライルは苦笑した。「あいつの、あの営業根性だ。世界で一番大きな客は王国だからな。きっと、堂々と城門をくぐってくるさ」「倒した魔王が、城に商売しに来るのか」クロウが呆れたように笑った。「とんでもねえ世の中になったもんだ」「ですが」エルナが考え込むように言った。「もし、魔王が、あの“マオウ・ソフト”を王国に持ち込んだら……フェルゼン課長とぶつかります。間違いなく。紙とハンコを四十年守り抜いてきた、あの方と。水晶の板で何もかも一瞬で片づける、あの機械が」その言葉に、一同は顔を見合わせた。明日の御前会議の、その先に、もう一つ大きな嵐が待っている。そんな予感がした。
「明日、だな」クロウが身を起こした。「王様の前で、勇者が経費の話をするなんて。前代未聞だぜ。緊張しねえのか、ライル」「するさ」ライルは正直に言った。「魔王の前より、緊張してるかもしれん。あのときは、剣を振るえばよかった。でも、明日は言葉だけだ。俺の苦手なやつだ」彼は苦笑した。「でも、一人じゃない。エルナさんがいる。ザイデルさんも認めてくれた。フェルゼン課長だって会議の場を作ってくれた。仲間もいる。――だから、やれる気がする」
「ひとつ、お約束を」エルナが言った。「明日、王の御前で、もし言葉に詰まったら。無理に飾った言葉を使わないでください。あなたの、そのまっすぐな言葉が、一番強いのです。フェルゼン課長の心を動かしたのも。ザイデル殿を味方につけたのも。ヴァロさんの手を止めさせたのも。すべて、あなたの正直な言葉でした。――明日も、ただ正直に。それで十分です」
ライルは深くうなずいた。その夜、四人と一人――いや、いつのまにか、なくてはならない仲間になったエルナを入れて、五人は遅くまで語り合った。旅の思い出を。出会った人々のことを。そして、明日へのささやかな願いを。世界を救った夜の、あの華々しい祝宴とはまるで違う静かな夜。だが、ライルにはこちらの夜のほうが、ずっと温かく感じられた。
「エルナさん」眠りにつく前、ライルは窓辺の彼女に声をかけた。「この旅が終わったら、あんたはどうするんだ。また、地下二階の財務課に戻るのか」エルナは少し考えてから答えた。「……わかりません。ですが、戻るとしても、もう前のわたしとは違うでしょう。机にかじりつくだけの財務官ではいられない。旅で知ってしまいましたから。一枚の紙の向こう側に広がる世界の広さを」彼女は月を見上げた。「ライル様。あなたは、これからどうなさるのですか。世界を救った勇者は、ふつう、英雄として称えられ、楽な暮らしが待っているはずですが」「さあな」ライルは笑った。「俺も、もう、ただ剣を振るうだけの勇者には戻れない気がする。この三か月で、書類のおそろしさもありがたさも知っちまったからな。――案外、財務の仕事も悪くないかもしれん」その冗談めかした一言を、エルナは笑わなかった。ただ静かに、「……それは、心強い」と、つぶやいた。その声のやわらかさに、ライルは少しどきりとした。
やがて、一人、また一人と眠りについていく。ライルは最後まで窓辺で月を見ていた。明日、すべてが決まる。三か月の旅の答えが出る。だが、もう恐れはなかった。集めた領収書は、一枚残らず本物だ。そこに嘘は、ひとつもない。ならば、ただ、まっすぐにそれを王の前に差し出すだけだ。世界で一番地味な冒険は、その最後の朝を静かに待っていた。月は、明日も変わらず王城を照らしている。その下で、一人の勇者と一人の財務官の長い旅が、いよいよ終わりを迎えようとしていた。




