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勇者、経費で落ちません  作者: みき
第1幕 国内編

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第34話 三か月の旅の答えを、課長の机に置く

 王都の財務課。地下二階。あの紙の海は、何も変わっていなかった。天井まで届く棚。算盤の音。うつむいてペンを走らせる職員たち。そして、最奥の机で、今日も黙々と判を押し続ける白髪の男――フェルゼン課長。


 ライルは、その机の前に立った。三か月前、宿題を突きつけられた、あの場所だ。だが、あのときと今とでは、ライルの足取りは、まるで違っていた。手には、すべての領収書と、第七号様式の束。そして、監査官ザイデルの太鼓判を捺した報告書。何より――フェルゼンの宿題への答えを携えていた。


「課長」ライルは、静かに言った。「戻りました。――頼まれた宿題の答えを持って」


 フェルゼンの、判を押す手が止まった。彼は、ゆっくりと顔を上げ、ライルを、それから、その後ろに控えるエルナとザイデルを、順に見た。「……ザイデル。監査室のお前が、なぜここに」「監査の結果を報告に」ザイデルは、一歩進み出た。「勇者ライル殿の経費精算。私が旅に同行し、全行程を、(あらた)めました。結論から申し上げる。――一切の不備なし。全面的に認めます」彼は、報告書を机に置いた。フェルゼンの眉が、わずかに動いた。あの厳格な監査官が、全面的に認める。それが、どれほど異例のことか、彼は誰より知っていた。


 ライルは、すべての領収書を机の上に並べた。はやて亭の焼き印。灯火屋の宿帳の写し。薬師ドルフの証文。火竜の里の現物取引。黒霧の宿の上限超過の控えと壊滅報告書。そして――魔王が署名した最後の一枚。一枚、また一枚。三か月の旅のすべてが、そこにあった。


 フェルゼンは、それを一枚ずつ検分しはじめた。あのときと同じ、恐ろしいほど丁寧な手つきで。だが、その指は、どの一枚にもつまずかなかった。検分が進むにつれて、老人の表情に、かすかな驚きが混じりはじめた。これだけの難しい事情を、すべて規程の中で処理しきっている。それは、彼の四十年の目から見ても、見事な仕事だった。


「……この、字の書けぬ御者の、焼き印による領収書」フェルゼンが、ぽつりとつぶやいた。「『署名が困難な場合、本人の意思に基づく記号・印影をもって、これに代える』――規程、第二百十一条。よく見つけたものだ。この条文を、実際に使う者を、わしは四十年で初めて見た」「それから、この現物取引の換算」彼は、別の一枚を手に取った。「金銭を介さぬ取引を、市場価値で計上する。第三百四条。――どれも、規程の奥の奥に眠っていた条文だ。誰も使わぬまま忘れられていた。それを、一つ、また一つと掘り起こして使っておる」


 フェルゼンの目が、エルナへと向けられた。「エルナ。お前の仕事か」「勇者様と共に考えたものでございます」エルナは、頭を下げた。「規程は、わたしの命綱です。困った人を救うために、何百年も書き足されてきた条文。それを、一つでも無駄にしたくはございませんでした」フェルゼンは、しばらく彼女を見ていた。「……規程を盾にも武器にもせず、傘として使ったか」その声には、かすかな感嘆がにじんでいた。同じく、規程に四十年を捧げた男として、彼女の仕事の値打ちが、痛いほどわかるのだった。


「……そして、これが」ライルは、最後に一枚の書類を置いた。「宿題の答えです」


 それは、ライルが旅の中で書き上げた、一枚の報告書だった。三か月前、フェルゼンは、こう言った。「なぜ、期限を過ぎた? しおりを、なくしたからだ。なぜ、なくした? その『なぜ』を、突き詰めてみろ」と。ライルは、その問いの答えを、旅をしながら、ずっと考え続けていた。そして、各地で出会った人々の中に、その答えを見つけたのだ。


「俺が、しおりをなくしたのは、俺の落ち度です」ライルは、まっすぐに言った。「でも、旅をして、わかったことがある。――しおりを読めなかった人は、俺だけじゃなかった。字の読めない御者がいた。書類を書いたことのない宿の跡継ぎがいた。お金を使わない里の人がいた。みんな、王国の難しい決まりや、しおりを読めずに損をしてきた。泣き寝入りをしてきた」


 フェルゼンは、黙って聞いていた。


「つまり、問題は、俺が忘れたことだけじゃない」ライルは、続けた。「王国のしおりや決まりが難しすぎて、普通の人には読めない。そこに、本当の問題があったんです。――だから、俺は、こう書きました。『勇者のしおりを、字の読めない人にもわかるように、作り直すべきだ』と。『出張所の場所を、もっとわかりやすく示すべきだ』と。それが、俺が旅で見つけた、宿題の答えです」


 そばで聞いていたエルナも、静かに言葉を添えた。「課長。わたしも、この旅で思い知りました。規程は、人を守るためにある。ですが、その規程が難しすぎて、肝心の人に届かなければ、意味がございません。字の読めぬ者。書類に不慣れな者。そういう人々にこそ、規程は寄り添うべきなのです。――勇者様の、この提案は、王国の規程を、本当に人を守るものへと近づける第一歩だと、わたしは信じます」その言葉には、孤児だった自分を規程に救われた者の、切実な実感がこもっていた。


 財務課が、しん、と静まり返った。それは、ただの言い訳ではなかった。自分の落ち度を認めたうえで、その奥にある、王国の仕組みそのものの問題をえぐり出した答えだった。一人の勇者の精算の話が、王国全体の制度の話へとつながっていた。


 フェルゼンは、長いあいだ、その報告書を見つめていた。そして、ゆっくりと口を開いた。「……お前は」彼の声は、低く、しわがれていた。「三か月前、ただの書類のできない勇者だった。期限も守れん。しおりもなくす。だが――」彼は、報告書から目を上げ、ライルを見た。「今、お前は、王国の制度の欠陥を指摘しておる。一人の勇者の精算から出発して。――これは、もはや、ただの経費精算ではない」


 ライルの胸が高鳴った。認められるのか。四十年、特例を認めなかった男に。だが、フェルゼンは、ふと表情を引き締めた。そして、思いがけないことを言った。「だが――この精算を認めるかどうかは、わし一人では決められん。事は、もはや、制度の改革にまで及んでおる。これは、王の御前で諮るべき案件だ」彼は、立ち上がった。「勇者ライルよ。お前の、この三か月を――王の御前で申し述べる覚悟はあるか」その言葉に、ライルは、ごくり、と唾をのんだ。玉座の間。三か月前、世界を救った報酬をもらえるはずだった、あの場所。だが、ついぞたどり着けなかった、あの場所だ。「……やります」ライルは、はっきりと答えた。「ここまで来たんです。最後までやり遂げます。世界を救った話じゃない。たった一人の勇者の経費精算の話を――王様の前で、堂々と申し述べます」その目には、魔王城へ乗り込んだときと同じ光が宿っていた。剣ではなく、紙の束を武器にして。世界で一番地味な冒険は、ついに、王国の頂へと辿り着こうとしていた。


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