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勇者、経費で落ちません  作者: みき
第1幕 国内編

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33/64

第33話 監査官が、ついに「文句なし」と署名する

 王都への帰り道。一行の足取りは、来たときとは、まるで違っていた。鞄の中には、すべての領収書が揃っている。最初の馬車賃から、最後の魔王の署名まで。長い旅の重荷が、今は誇らしい宝物に変わっていた。


 その夜の野営で、監査官ザイデルが、焚き火のそばに、すべての領収書を改めて並べた。これが、最後の総点検だった。彼は、一枚ずつ、これまで以上に入念に検めていった。日付のつながり。金額の合計。但し書きの整合。一枚の領収書が、ほかの記録と矛盾していないか。旅程とずれていないか。その目は、これまでで最も厳しかった。


 点検の途中、ザイデルは、何度か手を止めて、エルナに問いを投げた。「この火竜の里の現物取引。牙の市場価値、金貨五枚。この裏づけは」「町の薬問屋、『竜骨堂』。問屋の名と所在は、但し書きに。後日、照会可能でございます」「では、この関所の控え。後日確定の照会は、もう出したのか」「王都への帰着と同時に、提出する手はずです。控えに提出予定日も記してございます」――問いと答えが、夜気の中で小気味よく響き合う。ザイデルの問いは、もはや粗探しではなかった。むしろ、エルナの仕事の隅々までの完璧さを、一つずつ確かめ、味わうような響きがあった。打てば、必ず澄んだ音が返ってくる。その手応えを、彼は確かめていた。


「……正直、わたしには、何がすごいのか、半分もわからん」クロウが、小声でライルにささやいた。「だが、あの堅物の監査官が、だんだん機嫌がよくなってきてるのだけは、わかるぜ」「ああ」ライルも、うなずいた。「最初は、あんなに刺々しかったのにな。エルナさんの一枚一枚を確かめるたびに、なんだか嬉しそうだ」それは、奇妙な光景だった。徹底的に粗を探す監査官が、粗がまったく見つからないことを、心から喜んでいる。それは、好敵手の完璧さを認める喜びだった。剣士が、互角の好敵手と打ち合う、あの高揚に似ていた。


 ライルたちは、固唾をのんで見守った。エルナですら、わずかに緊張していた。ザイデルの「文句なし」を勝ち取ること。それが、この旅を本物にする最後の関門だった。焚き火が、何度も爆ぜた。点検は、夜更けまで続いた。


 やがて、ザイデルは、最後の一枚――魔王の署名した城の売店の領収書を置いた。そして、長い沈黙のあと、ふう、と息を吐いた。


「……完璧だ」彼は、静かに言った。「一枚の不備もない。一点の矛盾もない。これだけの数の領収書を、これだけの事情を抱えながら、ただの一つも、ごまかさず、ねじ曲げず、すべて規程に則って集めきった。――私は、長く監査官をしてきたが、これほど誠実な精算の束を見たことがない」


 エルナの肩から、すっと力が抜けた。ライルが、思わず「やったな!」と声を上げる。だが、ザイデルは、まだ続けた。「正直に言おう。この旅のはじめ、私は、あなた方を疑っていた。前例のない無茶な旅。きっと、どこかでほころびが出る。不正の尻尾をつかんでやろう、と。――だが、違った」彼は、エルナをまっすぐに見た。「あなたは、最後まで誠実だった。付け入る隙を探し続けた私が、最後には、ただ感服するばかりだった。エルナ殿。あなたは、私が出会った中で、最も規程に忠実な財務官だ」


 ザイデルは、懐から一枚の正式な書類を取り出した。監査報告書。彼は、そこに力強く署名を書き入れた。そして、最後に、こう書き添えた。――『本精算、一切の不備なし。監査官として、これを全面的に認める。ザイデル』。それは、四角四面なこの監査官が、その職務において与えうる、最大級の賛辞だった。


「これで」ザイデルは、その報告書をエルナに手渡した。「フェルゼン課長の前で、誰も、この精算に文句をつけられない。監査官が、全面的に認めた精算だ。――あの、先回りして妨害していた者が、何を言おうと、もう覆せん」


「ザイデル殿……」エルナは、その報告書を両手で受け取った。「ありがとうございます。あなたの、その厳しさが、この精算を本物にしてくださいました。あなたが、徹底的に検めて、なお認めた。だからこそ、これは、誰にも覆せない。――あなたは、敵ではなく、最強の味方でした」


「味方、か」ザイデルは、めずらしく、ふっと笑った。「悪くない響きだ。長く、誰からも煙たがられてきた。『あの口うるさい監査官』と。だが、あなた方は、私の厳しさを味方と呼んでくれる。――不思議な旅だった」彼は、焚き火を見つめた。その横顔から、長年背負ってきた孤独の影が、少しだけ薄れているように、ライルには見えた。


 ライルは、その報告書をそっとのぞき込んだ。四角四面な、几帳面な字で、ぎっしりと書き込まれた点検の記録。一枚ごとに、確かめた項目が細かく記されている。それは、ザイデルが、この旅にどれだけ本気で向き合ってきたかの証だった。「あんた、これ……俺たちの後ろをついてくるだけじゃなかったんだな」ライルは、しみじみと言った。「店ごとに、こっそり全部の領収書を検めて、こんなに細かく記録してたのか」「監査とは、そういうものだ」ザイデルは、ぶっきらぼうに答えた。「見るだけでは足りん。見たことを記録し、いつ誰に問われても説明できるようにしておく。――あなた方が、領収書を集めていたように。私もまた、私の紙を積み上げていた。それだけのことだ」その言葉に、エルナが深くうなずいた。立場は違えど、紙と誠実に向き合う者どうし。二人は、いつのまにか、同じ山の頂を、別の道から目指していたのだった。


「なあ、ザイデルさん」クロウが、酒の入った椀を差し出した。「今夜くらい、飲もうぜ。あんたも、もう味方なんだ。堅いこと抜きでな」ザイデルは、しばらく、その椀を見ていたが、やがて、ぶっきらぼうに受け取った。「……一杯だけだ。明日も行程がある」その生真面目な一言に、一同は、どっと笑った。かつての好敵手が、今は焚き火の輪の一員だった。


 だが、酒が回りはじめたころ、エルナは、ふと表情を引き締めた。「ザイデル殿。ひとつ、お尋ねしたいことが。――この旅を先回りして妨害していた者。各地の店に嘘を吹き込んでいた、あの者の正体は、結局わからずじまいです。あなたは、監査室の方。何か心当たりはございませんか」


 ザイデルの表情が、ふと硬くなった。「……心当たりはある」彼は、声を潜めた。「あの妨害は、財務の内部の者でなければ、できない。勇者一行の旅程を正確に知り、各地の店に先回りする。それができるのは――フェルゼン課長の、ごく近くにいる者だ」「課長の近く……」エルナの顔が、こわばった。「まさか」「あくまで、私の推測だ」ザイデルは、首を振った。「だが、王都に戻れば、はっきりする。この旅の成功を、最も恐れていた者が誰なのか。――気を引き締めることだ。本当の戦いは、王都の財務課で待っている」その言葉に、焚き火を囲む和やかな空気が、ふと引き締まった。旅の終わり。だが、それは、新たな戦いの始まりでもあった。世界で一番地味な冒険は、すべての領収書と、監査官の太鼓判を携えて、いよいよ王都へと帰還する。


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