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勇者、経費で落ちません  作者: みき
第1幕 国内編

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第31話 あれほど苦しんだ精算が、魔王のソフトでは一瞬で終わる

「では、まず――その鞄をこちらへ」魔王は、応接の卓をすっと手で示した。ライルは戸惑いながらも、肩から古びた革鞄を下ろした。三か月。世界中を駆けずり回って集めてきた、再発行の領収書。一枚一枚が、汗と土埃と、頭を下げ続けた記憶の結晶だった。その鞄を、よりにもよって、かつての宿敵の前に開いてみせる。妙な感慨があった。


 ガランが慣れた手つきで束を受け取り、一枚、また一枚と卓の上に並べていく。魔王はそれをゆっくりと眺めた。そして、おもむろに店の奥から一台の奇妙な装置を運んできた。水晶の板に淡い光を宿した、見たこともない代物。これが、噂の“マオウ・ソフト”を動かす魔導の機械だという。


「では、ご覧に入れましょう」魔王は最初の一枚を手に取った。「はやて亭。馬車賃、約三・五シルバー。但し書き、本人証言による補強あり」彼が読み上げると、その内容が水晶の板に、すうっと文字となって浮かび上がった。続けて、二枚目。「灯火屋、宿泊代、銀貨五枚。減免の但し書きつき」――読み上げるそばから、光の文字が次々と整然と並んでいく。三枚目、四枚目。薬師ドルフの証文。関所の控え。魔王の指は、よどみなく束をめくっていった。


 ライルは目を見張った。三か月かけて集めた何十枚もの領収書。それが、みるみるうちに、水晶の板の上で一覧の表へと姿を変えていく。費目ごとに勝手に振り分けられ、金額がひとりでに足し合わされていく。税の区分すら、自動で判定されていった。


「……できました」魔王が最後の一枚を読み終え、板に軽く触れた。次の瞬間、板の一番下に大きく合計額が表示された。「これが、勇者ライル殿の立替経費の総額。金貨二百十二枚と、銀貨三枚。すべての領収書を費目別に分類し、税を計算し、合計したもの。――所要時間、わずか数分でございます」


 店内に、しんと静寂が落ちた。


 ライルは言葉を失っていた。あの、第七号様式。十七枚のマス目を、エルナと二人、何日もかけて一行ずつ埋めていった、あの気の遠くなる作業。記憶を絞り出し、訂正印を押し、計算を何度もやり直した。それが――数分。たった数分で終わってしまった。剣の一振りで魔王を斬ったときよりも、あっけない幕切れだった。


「どうです」魔王は穏やかに微笑んだ。「これが、“マオウ・ソフト”の力です。人が何日もかけることを、一瞬で。計算違いも起きません。税の判定も間違えません。――世界中の書類仕事に苦しむ人々を、私はこれで救いたいのです」


 ライルは複雑な気持ちで、その水晶の板を見つめた。便利だ。恐ろしいほど。もし最初からこれがあれば、自分もエルナも、あれほど苦しまずに済んだ。だが――同時に、胸の奥に言いようのない寂しさが込み上げてきた。あの苦しい日々。エルナと机を突き合わせ、一枚ずつ向き合った時間。それが、まるで無駄だったかのように思えてしまったのだ。


 そして、その寂しさを誰よりも深く味わっている者がいた。エルナである。彼女は、水晶の板に並んだ完璧な集計表を身じろぎもせず見つめていた。その顔から血の気が引いていた。


「……わたしが」エルナの声はかすれていた。「十年かけて身につけたもの。費目を見分ける目。税を判じる知識。計算を間違えない正確さ。――そのすべてを、この機械は一瞬で。しかも、わたしより速く、わたしより正確に」彼女は自分の手を見下ろした。インクの染みついた、その指を。「では、わたしは……いったい何のために。わたしの十年は、何だったのです」


 それは、孤児だった自分を拾ってくれた財務課で、ただひとつ授けられた生きる術。数字を正しく扱うこと。それだけを心の支えに生きてきた。なのに、その術がまるごと機械に肩代わりされてしまう。彼女の足元が崩れていくようだった。ライルは、かける言葉を見つけられなかった。


「……違いますよ」だが、魔王は静かに首を振った。意外な優しさのこもった声だった。「あなたは、大きな思い違いをしておられる。――この機械ができるのは、『計算』だけです。あなたが旅の道中でなさったことを、この機械はひとつもできません」


「旅の道中で?」


 そばで聞いていたガランが眼鏡を押し上げ、静かに口を添えた。「魔王様のおっしゃる通りで。わたくしも魔王軍時代、帳簿は完璧につけました。ですが――兵たちのなけなしの給金を、家族にどう届けるか。傷ついた魔物の療養費を、どう工面するか。そういうことは、帳簿には書けませんでした。数字の向こう側にいる、生きた者のこと。それを考えるのは、いつも、わたくし自身の頭と心でした」彼はエルナをまっすぐに見た。「同業として申し上げます。計算は、誰がやっても同じ答えになる。ですが、その数字を誰のために、どう使うか。そこにこそ、わたしたちの本当の値打ちがございます」


 エルナは、その言葉をかみしめるように聞いていた。かつて魔王軍を支えた経理魔物と、王国財務課の自分。立場はまるで違う。だが、数字と向き合う者として、その悩みも、その誇りも、驚くほど同じだった。「……ガランさん。あなたにお会いできて、よかった」彼女は深く頭を下げた。「同じ道を歩む方の言葉ほど、胸に響くものはございません」


「字の書けぬ御者に、焼き印で領収書を作らせた。亡き宿の主人の宿帳から、半額の真心を掘り起こした。偏屈な薬師に、四十年の誇りを紙に刻ませた。――それは、『計算』ですか? 違うでしょう」魔王はエルナをまっすぐに見た。「それは、人と向き合うこと。一人ひとりの事情を汲み、その人を救う道を規程の中から探し出すこと。――この機械には、逆立ちしてもできません。機械は、与えられた数字を計算するだけ。その数字をどうやって人から引き出すか。それこそが、あなたの本当の仕事なのです」


 エルナは、はっと顔を上げた。魔王の言葉が、崩れかけた足元をそっと支え直していた。


「計算は、機械に任せればいい」魔王は続けた。「そうして、あなたはもっと人に向き合える。空いた時間で、もっと多くの人を救える。――道具に仕事を奪われるのではありません。道具につまらぬ作業を肩代わりさせて、あなたは、あなたにしかできないことに専念するのです。それが、道具を使いこなすということ」


 ライルは思わず声を上げた。「……なあ、魔王。お前、いいこと言うな。世界を滅ぼそうとしてた奴とは思えないぞ」「敗れて、商人になって学んだのですよ」魔王は苦笑した。「人を滅ぼすより、人を助けるほうが、よほど儲かるとね」その身も蓋もない一言に、張り詰めていた空気がふっと緩み、一同は思わず笑ってしまった。


 エルナは、しばらく水晶の板を見つめていた。そして、ようやく小さくうなずいた。「……そうですね。わたしの仕事は、計算ではなかった。人を守ることでした」その声には、もう、さっきの震えはなかった。むしろ、自分の仕事の本当の値打ちを改めて確かめた者の、静かな強さが宿っていた。世界で一番地味な冒険は、最後の宿敵の口から、思いがけず一人の財務官の揺らいだ心を救い上げたのだった。そして、ライルの胸には、ひとつの予感が芽生えていた。この魔王の、この機械は――いずれ、王国そのものを揺るがすのではないかと。


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