第30話 魔王は、会計ソフトの営業マンになっていた
目抜き通りのその一軒の前に立って、ライルは看板を見上げた。そして、しばらく言葉を失った。
真新しい立派な看板には、こう書かれていた。――『クラウド会計 “マオウ・ソフト” / あなたの帳簿に、革命を。』。そして、その下に小さく、こう添えられていた。『創業者・最高責任者 マオウ』。
「……まおう」ライルは呆然とつぶやいた。「魔王が……会計ソフトの会社を?」
店の中は明るく、清潔だった。きちんと整えられた応接の席。壁には、何やら図表の描かれた立派な掲示物。そして、その奥から一人の男がすっと立ち上がって、こちらへ近づいてきた。仕立てのいい上等な服。穏やかな物腰。だが、ライルはその顔を一目で見間違えるはずがなかった。三か月前、世界の命運を懸けて斬り結んだ、あの男――魔王、その人だった。
かつて、全身から世界を呑み込むような禍々しい瘴気を放っていた。だが今、目の前の男から感じられるのは、ただ洗練された商人の落ち着きだけ。魔王はライルを見て、一瞬、目を見開いた。そして――にこやかに一枚の名刺を差し出した。
「これは、これは。勇者ライル殿。お久しぶりです」その声は、記憶の中の地を這うような咆哮とは似ても似つかぬ、穏やかな営業の声だった。「ちょうどよかった。ぜひ、お聞かせしたいことがございまして。――勇者殿は、『経費精算のわずらわしさ』に、お悩みではありませんか?」
ライルの手から、危うく聖剣が滑り落ちそうになった。よりにもよって、その問いか。三か月、その「経費精算のわずらわしさ」に苦しめられ続けてきた、まさにその当人に向かって。魔王は、にこやかに続けた。「我が社のクラウド会計ソフト“マオウ・ソフト”。これさえあれば、領収書の管理も経費の精算も、すべて一瞬で。手書きの帳簿に別れを告げる時代が来たのです。いかがです、一度デモをご覧に」
「待て、待て、待て!」ライルは、ようやく声を絞り出した。「お前、魔王だろう! 俺が倒した! 世界を滅ぼそうとした! なのに、なんで会計ソフトを売ってるんだ!?」
「ええ、確かに私は敗れました」魔王は穏やかにうなずいた。その顔に恨みの色は微塵もなかった。「あなたに討たれ、力を失った。配下も散り散りに。――さて、これからどう生きるか。考えました。もう一度、世界を滅ぼすか? いや。一度、本気で敗れると、不思議とそういう気は失せるものです」彼は店内をぐるりと見回した。「そんなとき、ふと気づいたのです。魔王軍を率いていたころ。私が誰より頼りにしていたのは、力自慢の四天王ではなく――几帳面に帳簿をつけてくれた、一人の経理担当でした。組織を本当に支えていたのは、数字だったのだと」
その言葉に、店の奥から小柄な魔物がひょいと顔を出した。分厚い眼鏡をかけ、何冊もの帳簿を抱えた生真面目そうな魔物。経理担当のガランだった。「魔王様。お客様でございますか。あ、伝票の整理がまだ――」「ガラン、彼らは特別なお客様だ」魔王は優しく言った。「私の新しい仕事の原点を知る人々だよ」
「世界中の商人やお役所が」魔王はライルに向き直った。「あなたと同じ悩みを抱えています。膨大な領収書。複雑な精算。手書きの帳簿に追われ、日々すり減っている。――ならば、私はそれを救おうと。かつて世界を滅ぼそうとした、この私が。今度は世界を『事務処理』から救う。悪くないセカンドライフだと思いませんか」
ライルは毒気をすっかり抜かれて、その場に立ち尽くしていた。怒るべきなのか、笑うべきなのかわからなかった。だが、その隣で一人だけ、まったく違う反応をしている者がいた。エルナである。彼女は魔王の名刺と、店内の掲示物――“マオウ・ソフト”の機能を説明した図表を食い入るように見つめ、その顔に、これまで誰も見たことのない強い衝撃を浮かべていた。
「……これは」エルナの声が震えていた。「領収書を書き写す手間も。集計の計算違いも。税の区分の判定も。すべて、この仕組みが肩代わりすると……? わたしが十年かけて身につけた技を……一瞬で?」彼女にとって、それは自分の存在を根底から揺るがす光景だった。机にかじりつき、一枚ずつ心を込めて処理してきた、その仕事。それを、この“ソフト”は一瞬でこなしてしまうというのだ。
魔王は、その様子を目ざとく見て取った。「おや、そちらの方は――財務の専門家でいらっしゃいますね。一目でわかります。数字を心から愛しておられる目だ」彼はエルナに、にこやかに微笑んだ。「ご心配には及びません。ソフトは、あなたの仕事を奪うのではありません。あなたを単純な書き写しや計算から解放するのです。そうして、空いた時間で、あなたはもっと大切なこと――人をどう守るかを考えられるようになる。道具は、あくまで道具。それを活かすのは、あなたのような人なのです」
「……ところで」ライルは、ようやく聖剣から手を離した。「俺たちは、その商売の邪魔をしに来たわけじゃないんだ。城の売店の領収書を再発行してほしくてな。あんたの経理担当――ガランさんが、当時の記録を持ってるんじゃないかと」「ああ、城の売店の」ガランが眼鏡を押し上げた。「もちろん、記録はございます。魔王軍時代の売上記録。すべて、こちらに保管しております。組織が解散しようとも、記録を捨てるなど経理の名折れ。――勇者様のお買い上げ分も、日付さえいただければ、ただちにお調べして正式な領収書をお作りいたします」その、よどみない返答に、エルナは思わず感嘆した。解散した組織の記録を、なお完璧に保管している。これぞ、一流の経理。顔も知らぬまま敬意を抱いていた相手は、想像以上の手練れだった。
「助かる……!」ライルは胸をなで下ろした。これで、ついに最後の一枚が手に入る。長い、長い再発行の旅の終わりが見えた。だが、魔王はその様子を見て、にこやかに、しかし意味ありげに言った。「領収書なら、すぐに。ですが、勇者殿。せっかく、ここまでお越しになったのです。一つ、見ていただきたいものがございます。あなた方が、その大変な思いをして集めてきた、たくさんの領収書。――それが、この“マオウ・ソフト”でどう扱われるのか。ぜひ、ご覧に入れたい」その目には、商売人の自信と、そして、どこか悪戯っぽい光が宿っていた。
エルナは、その言葉にはっと顔を上げた。かつての魔王の口から、なぜ、こんなにも的を射た言葉が出てくるのか。ライルは、その奇妙な光景を、ただ見守るしかなかった。世界を救った勇者と、その勇者に倒された魔王が今、一軒の商店で向かい合っている。剣を交えるためではなく。最後の一枚の領収書と――そして、思いもよらない世界の「これから」をめぐって。世界で一番地味な冒険は、その最大の宿敵を、最も奇妙な形で再会させたのだった。




