第29話 几帳面すぎる経理魔物は、紙の足跡を残していた
魔王と、その経理魔物の行方を追って、一行はふたたび街道を西へと引き返しはじめた。だが、手がかりはあまりに乏しかった。魔王がどこかで何かの仕事を始めた。経理魔物がそれに付き従った。わかっているのは、それだけ。広い世界のどこを探せばいいのか。さすがのライルも、途方に暮れかけていた。
「ご安心ください」だが、エルナだけは自信ありげだった。「相手が几帳面な経理担当なら――必ず足跡を残しております。几帳面な人間は、引っ越しのたびに転居届を出し、取引先に新しい連絡先を知らせるものです。それは、魔物であっても同じはず。むしろ几帳面であればあるほど、その足跡ははっきりと残っている」
エルナの読みは、見事に当たった。最初の手がかりは、魔王城の閉店した売店にあった。あの貼り紙だ。よく見ると、貼り紙の隅に小さな字でこう書き添えてあった。『過去の取引に関するお問い合わせは、下記まで。経理担当・ガラン気付、商都ヴェルデ、第三商会』。閉店の貼り紙にすら、几帳面に問い合わせ先を明記していたのだ。
「……几帳面にも、ほどがあります」エルナは、その貼り紙を見て、めずらしく感嘆の声を漏らした。「閉店の挨拶に問い合わせ先を添える。これは、一流の経理の仕事です。お会いするのが楽しみになってまいりました」その目は、好敵手を見つけた剣士のように輝いていた。同じ「数字に厳しい者」として、彼女は、その顔も知らぬ経理魔物に、すでに深い敬意を抱いているようだった。
こうして、一行は商都ヴェルデを目指すことになった。だが、その道のりも、几帳面な経理魔物の足跡をたどる旅となった。第三商会を訪ねると、すでに転職したあと。だが、そこにもきちんと次の連絡先が残されていた。『ガランは当会を退き、現在は東通りの両替商に。お問い合わせは、そちらへ』。両替商を訪ねると、また次の足跡。まるで、几帳面さで編まれた糸をたぐっていくようだった。
「すごいな」ライルは、半ば呆れて言った。「行く先々に、ちゃんと次の連絡先がある。普通、こんなにきっちり残すか?」「残しません」エルナはきっぱりと言った。「ですが、それこそが信用というものなのです。いつ、誰が過去の取引について訪ねてきても、必ずたどり着けるようにしておく。それは、相手への誠実さです。このガランという経理魔物――魔王軍にいたとは思えぬほど、まっとうな仕事をしております」
ライルは歩きながら、ふと考え込んだ。「なあ、エルナさん。俺はずっと不思議だったんだ。魔王軍ってのは、世界を滅ぼそうとしてた組織だろう。なのに、几帳面な経理がいて、帳簿がきっちりしてた。なんで悪の組織が、そんなまっとうな経理を必要としたんだ?」
「どんな組織も、お金で動くからです」エルナは答えた。「魔物にも、ねぐらがいり、食料がいり、武具がいります。それを調達するには、お金がいる。お金が動けば、必ずそれを管理する者が必要になる。――善の組織も悪の組織も、その点だけはまったく同じなのです。むしろ、お金にだらしない悪の組織は、たいてい内側から崩れて自滅します。魔王軍が長く世界を脅かせたのは――皮肉なことに、その経理がしっかりしていたからかもしれません」「悪の強さの秘密が、経理かよ」ライルは笑った。「夢のない話だな」「ですが、真実です」エルナはまじめにうなずいた。「世界を救うのも、世界を滅ぼすのも、結局は足元の数字をまっとうに扱えるかどうか。それにかかっているのです」
糸をたぐる旅の途中、一行は思わぬ人物と再会した。商都のにぎやかな広場の一角。人だかりの中心で、何やら熱心に演説をしている痩せた男がいた。蛇のようにしなやかな身のこなし。かつて毒と幻術で一行を苦しめた、四天王の最後の一人――幻妖のセズ。だが、その手にあったのは、毒の短剣ではなく、色とりどりのちらしの束だった。
「さあさあ、お立ち会い! 一度きりの人生! 後悔しない買い物を!」セズは、巧みな口上で客を集めていた。どうやら、今は商品の実演販売人になっているらしい。幻術で客の心をつかむ話術は健在だった。ライルに気づくと、セズは一瞬ぎくりとしたが、すぐににやりと笑った。「これはこれは、勇者殿。どうです、ひとつ。世界を救った英雄も使っている、と言えば、これが飛ぶように売れる。宣伝にご協力願えませんかな?」
「お前まで、商売っ気の塊か……」ライルは苦笑した。四天王は、本当に揃いも揃ってたくましい。だが、セズはガランの居場所について、貴重な情報を持っていた。「ガランなら、知っているとも。あのしみったれた経理屋だろう。魔王様に心酔していてな。解散後も、ただ一人魔王様についていった。今は――魔王様の新しい商売の帳簿を、一手に引き受けているらしい」
「その魔王の商売ってのは、何なんだ」ライルが身を乗り出すと、セズは思わせぶりに笑った。「ふふ。それは、ご自分の目で。もうすぐわかりますよ。なにせ、魔王様の店は――この商都ヴェルデの目抜き通りに、堂々と看板を掲げておられますからな」セズは、広場の向こう、大通りのほうをすっと指さした。
ライルたちは、その指の先をたどった。にぎやかな目抜き通り。立ち並ぶ商店の看板。その中に、ひときわ真新しく立派な一軒があった。だが、まだ距離があって、その看板の文字までは読み取れない。「あれが……魔王の店」ライルの胸が、どくりと高鳴った。倒したはずの宿敵が、世界を滅ぼそうとした諸悪の根源が、今、商都の目抜き通りで堂々と商売をしている。いったい何を売っているというのか。
「行ってみましょう」エルナが、静かに、しかし決然と言った。彼女の目もまた、これまでにない緊張に引き締まっていた。最後の領収書を握る、几帳面な経理魔物ガラン。そして、その主である転職した魔王。この旅のすべての糸が、あの一軒の店へとつながっている。「ガランという経理担当にお会いできれば。きっと、売店の記録も残されているはず。――最後の一枚に手が届きます」
一行は、ごくりと息をのみ、目抜き通りへと足を踏み出した。後ろから、ザイデルが静かに続く。かつて剣を握りしめて踏み込んだ魔王城。だが今、ライルが向かうのは、商都のにぎやかな大通り。手にしているのは、剣ではなく白紙の領収書の束。世界で一番地味な冒険は、いよいよ最後の、そして最も奇妙な宿敵との再会へと近づいていく。あの看板に何が書かれているのか。その答えは、もう目の前に迫っていた。「あのしみったれた経理屋に、よろしくな」背中で、セズのからかうような声が聞こえた。「言っておくが、ガランは手強いぞ。あいつの帳簿に、付け入る隙はない。あんた方の連れのお役人さんと、いい勝負になるだろうよ」その言葉に、エルナは振り返らず、ただ口元にかすかな笑みを浮かべた。手強い相手ほど、望むところ。彼女の足取りは迷いなく、目抜き通りのその一軒へと向かっていった。




