第3話 第七号様式の前で、勇者パーティは三か月の旅を一行ずつ思い出す
第七号様式は、思っていたよりずっと細かかった。
日付、費目、支払先、金額、但し書き。マス目はどれも小さく、そのくせ数だけは無数にあった。ライルは一行目の「日付」の欄を前に、早くも羽根ペンを止めていた。インクの滴が一粒、紙の上に落ちて、小さな黒い染みを作った。
「あ」
「訂正は二重線を引き、訂正印を押してくださいませ」エルナが顔も上げずに言った。「修正液の使用は認められておりません」
「最初の一滴から修正かよ……」ライルは肩を落とした。剣なら、一振りで魔物を両断できる。だが紙の上では、一滴の失敗すら、勝手には消せないのだ。
気を取り直して、最初のマス目に向き合う。「旅の初日……あれは、何月何日だったかな」
「春の祝祭の翌朝だったでしょ」とセリカ。「だから三の月の、四日」
「いや、五日だ」とミラ。「祝祭は満月の夜で、わたしたちが発ったのはその次の次の朝」
「次の朝だろ」とクロウ。「二日も宿でぐだぐだしてねえよ」
「いや、クロウ、あんた二日酔いで一日寝てたじゃない」とセリカ。
「……ああ、そういや寝てたな」
三人が言い争いを始めた。エルナは静かにそれを聞いていたが、やがて口を開いた。
「王国の出立記録によれば、三の月四日でございます」
「最初から記録あるんじゃねえか!」
「出立の日付だけは。費用の記録は、ご本人にしかわかりませんので」
ライルは観念して、最初の一行を書き込んだ。三の月四日。馬車賃。支払先――。
「馬車屋の名前、覚えてるか?」
「『はやて亭』とか、そんなんだった気がするぜ」とクロウ。
「『はやかぜ屋』じゃなかった?」とセリカ。
「『疾風』と書いて、なんと読むかは知らないけど、看板に馬の絵が」とミラ。
エルナの羽根ペンが、宙でぴたりと止まった。
「支払先の名称が特定できない場合、その経費は『相手方不明』として、原則認められません」
「最初の一行から詰んでるじゃないか……!」
ライルは頭を抱えた。剣で斬り結ぶなら、相手の名前など知らなくてよかった。だが書類は、敵の名前を、住所を、看板の正確な綴りまでを要求してくる。世界とは、こんなにも細部でできていたのか。三か月、彼は世界の運命と向き合ってきたつもりだった。だが本当は、その世界は、馬車屋の屋号ひとつ正しく覚えていないような、いい加減な記憶の上に立っていたのだ。
「……ひとつ、確認させてください」エルナがふいに問うた。「馬車に乗られたとき、御者の方と、何か言葉を交わしましたか。たとえば――屋号を口にされた、とか」
「言葉……ああ、そういえば」ライルは記憶をたぐった。「乗るとき、爺さんが言ってた。『はやて亭のもんは、ぜってえ約束の刻にゃ遅れねえ』って、自慢げに」
「では『はやて亭』で記載いたします。ご本人の証言は、補強資料として一定の効力がございますので」エルナはさらりとペンを走らせた。「次。馬車賃は、おいくらでしたか」
「銀貨で……三枚、いや四枚出して、釣りが少し戻ってきたから……正味、三枚と半分くらいか」
「『約三・五シルバー』。金額が概算の場合は、その旨を但し書きに明記いたします」
エルナの手はよどみなかった。あいまいな記憶を、彼女は次々と、規程の認める形へと置きかえていった。「覚えていない」を「概算」に、「たぶん」を「証言による補強」に。同じ曖昧さでも、書き方ひとつで、通る紙と通らない紙に分かれるのだ。ライルは気づけば、その横顔に見入っていた。さっきまで絶望的に思えた一行一行が、彼女の手にかかると、不思議と一つずつ埋まっていく。
「……お姉さん、あんた、すごいな」
「規程を知っているだけです」
「規程を知ってるってのは、すごいことなんだな。俺は剣の振り方しか知らなかった」
エルナは答えなかった。ただ、ペンを動かす手が、ほんの一瞬だけ止まった――ような気が、ライルにはした。彼女はすぐにまた、何事もなかったように升目を埋め始めたが。
こうして勇者一行は、その日の夕暮れまで、三か月の旅をひとマスずつ思い出していった。何日目にどの村で水を買い、どこの宿で雨宿りをし、どの街道で誰が何を食べたか。記憶は人によって食い違い、そのたびに小さな言い争いが起き、エルナがどこからか取り出す王国の記録が、それを淡々と裁定した。旅のあいだは命がけだった出来事が、こうして升目に収まってみると、ひどく小さく、けれど確かに、自分たちが生きて歩いた証のように思えてくるのだった。
「待った」ふいにクロウが声を上げた。「第十七日の干し肉、あれは経費になんのか? あれは俺がその……手に入れてきたやつだ」
「手に入れた、と申しますと」エルナのペンが止まった。「どちらでお買い求めに?」
「……買った、とは、言ってねえ」
財務課に、再び沈黙が落ちた。エルナはしばし羽根ペンの先を見つめ、それから、何も書かずに、静かに次の升へとペンを移した。「……第十七日の食費は、記載なし、といたします」その横顔は何も語らなかったが、クロウは気まずそうに目を逸らした。だが、それはまた別の話である。
「次の難所は、第二十三日です」エルナがページをめくった。「この日、勇者様は『火竜の巣』を通過しておられます。記録によれば――一帯が業火に包まれ、村がひとつ焼失した、と」
「ああ、あの竜か。手こずったな」ライルが頷く。「で、それが経費と何の関係が」
「勇者様のマントが、その日、焼けておられます。第七号様式とは別に、『被服損耗届』の提出が可能です。任務遂行中に装備が損耗した場合、その補填を請求できます」
「装備が燃えたぶんも、申請できるのか!」
「ただし」エルナは静かに付け加えた。「『損耗が任務に起因すること』『過失によるものでないこと』の証明が必要です。――勇者様。外套が焼けたのは、火竜のためですか。それとも」
ライルの動きが、ぴたりと止まった。セリカが、すっと目を逸らした。
「……セリカ」
「だ、だってあのとき、火竜の炎をあなたが避けたから、後ろのわたしの炎魔法が……ちょっと、かすっただけで」
「ちょっとじゃない。背中が全部燃えた」
「『同行者の過失による損耗』は、補填対象外でございます」エルナはペンを置いた。「……火竜のためということで、よろしいですね」
「火竜のためだ」「火竜のためです」三人の声が、見事にそろった。エルナは何も言わず、ただ『火竜による損耗』と一行を記した。その横顔には、ほんのわずか――気のせいかもしれないが――呆れのようなものが滲んでいた。
日が傾き、財務課の窓に夕焼けが差し込む頃、第七号様式の一枚目は、ようやく半分が埋まっていた。たった半分。されど半分。ライルはインクで汚れた指を見つめ、奇妙な達成感を覚えていた。魔王を斬ったときとは、まるで違う種類の手応えだった。あのときは一瞬で世界が変わった。だが今日は、一日かけて、紙の上に半分のマス目が埋まっただけだ。それでも――進んだ。確かに、一歩。
ふと、ライルは尋ねた。「なあ、エルナさん。あんたは……どうして、ここまでしてくれるんだ。こんな面倒な精算、本当は突き返しちまえば楽だろう。期限切れの一言で」
エルナの手が止まった。彼女はしばらく升目を見つめ、それから、いつもの平坦な声で答えた。「突き返すのは、簡単です。ですが、それで困るのは勇者様で、得をするのは誰でもありません。……正しく書けば通るはずの申請が、書き方を知らないというだけで通らない。わたしは、それを見過ごせないだけです」
「……それは、優しさってやつか?」
「業務です」エルナは即座に否定した。が、ほんの少しだけ、付け加えた。「ただ――世界を救った方が、紙きれ一枚で泣くのは、規程として正しくとも、わたしの好むところではございません」
ライルは思わず笑った。この無表情な財務官は、言葉では決して認めないが、たぶん、誰よりも自分たちの味方なのだ。そう思うと、十七枚という途方もない枚数も、ほんの少しだけ、軽く感じられた。
「今日はここまでにいたしましょう」エルナが羽根ペンを置いた。指先のインクを布で丁寧に拭いながら、彼女は言った。「続きはまた明日。なお――」
「なお?」
「埋めるべき様式は、全部で十七枚ございます」
ライルの手から、羽根ペンが滑り落ちた。机の下へ転がっていくそれを、誰も拾おうとしなかった。セリカが乾いた笑いを漏らし、ミラが天を仰ぎ、クロウが「十七枚……」と呆然と繰り返した。
世界を救う旅は三か月で終わった。だが、その旅を紙に書き起こす旅は――どうやら、まだ始まったばかりらしかった。窓の外では、英雄の凱旋を祝う篝火が、夜の城下に灯り始めていた。その灯りは美しく、そして、地下二階の小さな窓には、ほとんど届かなかった。




