第2話 申請期限は昨日。なぜ誰も、それを教えてくれなかったのか
「昨日?」
ライルは思わず机に身を乗り出した。「俺は昨日、まだ国境の街道を歩いてたんだぞ。期限が昨日なんて、知りようがないじゃないか」
「規程上は、討伐完了の日から起算して三十日以内、とされております」エルナは帳簿のページをめくり、ある一行を指でなぞった。「勇者様が魔王を討たれたのが、ちょうど三十一日前。よって、昨日が最終日でございました」
「だったら討伐の翌日には王都に着いてなきゃ間に合わないってことか? 魔王城は世界の果てだぞ。どう歩いたって二週間はかかる」
「はい。ですので、討伐後はまず最寄りの王国出張所にて『討伐完了届』を提出し、起算日の延伸を申請していただく必要がございました」
「そんな出張所、見たことも――」
「魔王城から徒歩四日、霧の谷の手前にございます」
ライルは黙った。霧の谷。あの、三日かけて命からがら抜けた、亡者のさまよう谷だ。あんなところに王国の出張所があったとは。あったとして、誰が気づくというのか。亡者を斬り払いながら駆け抜けるのに精一杯で、看板を読む余裕などあるはずもなかった。
「待ってくれよお姉さん」クロウが横から口を挟んだ。「俺たちゃ世界を救うので手一杯だったんだ。届けがどうとか、谷の出張所がどうとか、誰も教えちゃくれなかった」
「ご出立の際、王国より『勇者様のしおり』をお渡ししているはずです」
エルナが引き出しから取り出したのは、薄い冊子だった。表紙に几帳面な字で『勇者様のしおり ―― 討伐から精算までの手引き』とある。ライルは見覚えがあるような、ないような、微妙な顔をした。何しろ出発の朝は、王の長い演説と、神官の祝福と、市民の見送りとで、頭がぼうっとしていたのだ。
「セリカ、これ……もらったか?」
「……たぶん、出発のときに何か渡された気は。でもあのとき、わたしたち、王様の演説と祝福の儀式と楽団の見送りで頭がいっぱいで」セリカは記憶を辿るように宙を見た。「冊子……どこかで、焚き火の焚きつけにした、ような」
「焚きつけ!?」
「だって、第三夜が猛吹雪で! あのとき乾いた紙はあれしかなくて! あれがなかったらわたしたち凍え死んでた!」セリカが必死に弁明する。「むしろあのしおりは、別の意味でわたしたちの命を救ったの!」
「……命を救った手引きを、燃やして命を救ったわけか」クロウが頭をかいた。
財務課に、しばしの沈黙が落ちた。
エルナは表情を変えなかった。ただ、しおりを静かに引き出しに戻すと、また一行、帳簿に何かを書きつけた。ライルにはその字が読めなかったが、おそらく良いことは書かれていない。「手引き、紛失(焼失)」とでも記されたのだろう。
「……なあ」ライルは声を落とした。「正直に言う。俺は剣のことしか知らない。書類のことは、本当に、何ひとつわからないんだ。だから、教えてくれ。今からでも、間に合わせる方法はないのか」
それは、世界を救った勇者の、初めての本音だった。魔王の前ですら膝を折らなかった男が、紙きれ一枚の前で、頭を下げていた。
エルナはペンを止めた。そして少しの間、ライルの顔を――剣ダコだらけの手を、傷の残る頬を、けれど嘘のない目を――じっと見た。
「……ひとつだけ」
「あるのか!」
「期限を過ぎた申請にも、救済の規定がございます。『特例事由による期限後申請』。やむを得ない事情があったと認められれば、受理される場合がございます」
「やむを得ない事情なら、いくらでもある! 魔王と戦ってたんだぞ!」
「その『やむを得ない』を、感情ではなく、規程の言葉で証明する必要がございます」エルナは静かにくぎを刺した。「『大変だった』では通りません。『何月何日、いかなる事由により、物理的に申請が不可能であったか』を、客観的に記す。それが特例申請でございます」
「……それは、難しいのか」
「はい。なぜなら」エルナは続けた。「特例の承認には、財務課長の決裁印が必要です」
「課長? なら、その課長に頼めば――」
エルナは答えず、ちらりと部屋の奥へ視線を投げた。ライルもつられて目をやる。紙の山の最奥、ひときわ大きな机に、ひとりの初老の男が座っていた。
白髪をきっちりとなでつけ、針のように細い眼鏡をかけ、身じろぎもせず書類に判を押し続けている。その手元には、見たこともない数の朱肉と印鑑が、儀式の道具のように整然と並んでいた。一つ判を押すたび、男はわずかに目を細める。まるで、その一打に魂を込めるかのように。押し終えた書類を少しの狂いもなく重ね、角をそろえ、また次の一枚へ。その手つきには、剣士が剣すじに込めるのと同じ種類の、静かなすごみがあった。
「財務課長、フェルゼン」エルナの声が、ほんの少しだけ硬くなった。「王国財務に四十年。前例と規程を、世界の何より重んじるお方です。そして――」
男がふと顔を上げ、こちらをちらりと見た。品定めするでもなく、敵意があるでもなく、ただ「書類は揃っているのか」とだけ問うような、乾いた目だった。その視線が触れただけで、クロウが思わず半歩下がった。歴戦の盗賊が、だ。
「特例を、これまで一度も承認したことがございません」
「四十年で、一度もか」
「一度も。『特例とは、規程の敗北である』というのが、課長の口癖でございます」
ライルは唾を呑んだ。魔王の威圧とはまるで質の違う、しかし確かな圧が、紙の山の向こうから押し寄せてくる。剣で斬れるものなら、どれほど楽だったか。だがあの男に斬りかかったところで、斬れるのは紙束だけで、何ひとつ解決しないことだけは、はっきりとわかった。
「……勝ち目は」
「正直に申し上げて、ございません」エルナは即答した。それから、ほんのわずか――本当に、紙一枚ぶんだけ――声を和らげて、こう付け足した。「ですが、勝ち筋がないわけでもございません。フェルゼン課長は、規程を盾にする方ではありません。規程を、信じておられる方です。つまり――正しく規程に則った申請ならば、たとえ相手が勇者でなくとも、必ず判を押します。逆に言えば、一点でも不備があれば、たとえ相手が勇者でも、決して押しません」
「……それは、励ましか?」
「業務上の助言でございます」
にこりともせず、エルナは言った。だがライルには、その一言が、なぜか旅の途中で仲間にかけてもらったどんな言葉よりも、心強く響いた。勝ち目はない。だが、勝ち筋はある。ならば、やることはひとつだ。
「ひとつ訊いていいか」ライルは尋ねた。「もし、その特例申請ってやつが通らなかったら、どうなる」
「立替分は、全額ご自身の負担となります。約三か月分の旅費、宿泊費、薬代――概算で、金貨にして二百枚ほどかと」
「に、二百枚!?」クロウがすっとんきょうな声を上げた。「世界救って、逆に借金背負うのか俺たち!?」
「報酬が支払われれば、相殺されます」エルナは淡々と言った。「ですので、順序が大切でございます。まず経費を精算し、しかるのちに報酬を受け取る。この順序を一段でも飛ばせば、勇者様は世界を救ったうえで、王国に借金を負った最初の英雄として、歴史に名を残されることになります」
「そんな歴史に名を残したくない……!」
セリカが青ざめ、ミラが「神よ」と小さく祈った。ライルは深く息を吐いた。魔王を倒した英雄が、薬代の借金で身を持ち崩す。そんな結末は、どんな魔王の呪いよりも、ぞっとしなかった。
「……わかった。やる。一枚残らず、埋めてやる」ライルは顔を上げた。その目には、魔王城に乗り込んだときと同じ光が戻っていた。「俺たちは世界を救った。だったら、その証明くらい、書ききってみせる」
「結構なお覚悟です」エルナはわずかも表情を動かさなかったが、帳簿の隅に小さく、何かを書き足した。今度のそれは――ライルにはわからなかったが――きっと、悪い記録ではなかった。
エルナは机の上に、あの一枚を再び滑らせた。王国指定第七号様式・経費精算書。世界を救った勇者が、人生で初めて本気で向き合うことになる、たった一枚の紙だった。
「では、始めましょう。まずは旅程を、一日ずつ。覚えている限り、すべて。あいまいなものはあいまいなまま、嘘だけは書かずに」
ライルは羽根ペンを握った。剣よりずっと細く、ずっと軽いそれが、なぜか、これまでのどの得物よりも重く感じられた。背後で仲間たちが、覚悟を決めたように、机のまわりへ集まってくる。世界を救った四人の、二度目の――そして、はるかに地味な――冒険が、いま始まろうとしていた。




