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勇者、経費で落ちません  作者: みき


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第1話 魔王を倒して凱旋した勇者、玉座の間ではなく地下二階の財務課に通される

 魔王は倒れた。


 百年にわたって世界を覆っていた瘴気は晴れ、空には十年ぶりの青が戻った。勇者ライルは、魔王城の最上階で、満身創痍のまま空を見上げていた。胸当ては割れ、マントは焦げ、利き腕には深い裂傷が走っている。それでも、生きていた。世界もろとも、生き延びたのだ。


「……終わったのか」


 仲間たちが背後で歓声をあげる。魔法使いのセリカが涙ぐみ、僧侶のミラが祈りを捧げ、盗賊のクロウが「報酬は山分けだぜ!」と叫んでいた。三か月に及ぶ死闘の果てに、ついに世界は救われたのだ。崩れゆく城の窓から差し込む朝日が、四人の影を長く床に伸ばしていた。誰もが、これで全てが報われると信じていた。


 王都へ凱旋したのは、それから二週間後のことだった。


 城下の大通りは人で埋め尽くされていた。花びらが舞い、楽団が高らかに勝利の旋律を奏で、子どもたちが「勇者さまだ!」と駆け寄ってくる。沿道の窓という窓から手が振られ、屋根の上にまで人がよじ登っていた。ライルは照れくさそうに手を振りながら、白亜の王城へと続く長い階段を上っていった。背中に浴びる歓声は、魔王の咆哮よりもなお、胸を熱くした。


 いよいよ謁見の間で、王から直々に労いの言葉と、約束された報酬を賜るのだ。世界を救った褒美である。きっと爵位も、領地も、黄金も――旅のあいだ、クロウが毎晩のように夢見ていた山ほどの金貨が、ついに手に入る。ミラは故郷の教会を建て直すと言っていた。セリカは魔法学院に研究棟を寄付するのだと。ライル自身は、何に使うかまだ決めていなかった。決めていないほどの、大きな何かが待っていると思っていた。


「勇者ライル様でいらっしゃいますね」


 王城の門をくぐったところで、文官らしき男が丁寧に頭を下げた。眼鏡をかけた、線の細い男だ。歓声に沸く外とは対照的に、その声はどこまでも平坦だった。


「ああ。陛下が玉座の間でお待ちと聞いたが」


「はい。ですが、その前にお通しいただきたい場所がございまして」


「謁見の前に? なんだ、身を清める間でも用意してくれたのか」


「いえ」


 文官は表情ひとつ変えず、廊下の奥――上ではなく、下へと続く薄暗い階段を手で示した。陽の差す謁見の間とは、まるで逆の方角だった。


「地下二階。財務課でございます」


「……は?」


「どうぞ、こちらへ」


 ライルは仲間たちと顔を見合わせた。クロウが「財務課ぁ?」と眉をひそめる。セリカは「謁見が先じゃないの?」と小首をかしげ、ミラは無言で胸の聖印を握った。だが文官はもう歩き出している。ライルは戸惑いながらも、その背を追って階段を下りていった。歓声が、一段下りるごとに遠ざかっていく。


 上るほどに豪華になっていく王城とは逆に、地下へ向かうほど壁は無骨な石積みになり、装飾は消え、松明の数すら減っていった。やがてたどり着いたのは、鉄製の扉に「財務課」とだけ書かれた、なんとも事務的な一室だった。扉の脇には『受付時間 朝の鐘より夕の鐘まで/昼の休憩あり』と、これまた事務的な札が下がっている。


 扉を開けると、そこは紙の海だった。


 天井まで届く棚という棚に、分厚い書類綴りがびっしりと詰まっている。木の机が整然と並び、何人もの職員が一様にうつむき、羽根ペンを走らせている。インクと古い紙の匂い。聞こえるのはペン先の音と、算盤を弾く乾いた音だけ。窓は高い位置に小さくひとつあるきりで、外の祝祭の喧騒は、ここまでは届かなかった。


 世界を救った勇者の凱旋に、誰ひとり顔を上げなかった。


「……あの、陛下は」


「精算がお済みになりましたら、お会いいただけます」


 奥の机から、ひとりの女性職員が立ち上がった。


 紺色の制服をきっちりと着込んだ、若い女だった。髪を一筋の乱れもなく結い上げ、表情は――なんと言えばいいのか、徹底して無だった。喜びも、驚きも、敵意すらもない。彼女はライルの全身を、まるで提出された書類をあらためるように一見した。傷だらけの鎧も、伝説の聖剣も、彼女にとっては「精算対象」以上の意味を持たないようだった。


「財務課のエルナと申します。勇者ライル様の経費精算を担当いたします」


「経費……精算?」


「はい。魔王討伐に際してお立て替えになった費用を、王国が精算いたします。報酬のお支払いは、その精算が完了した後となります」


 ライルは一瞬、言葉の意味を測りかねた。立て替え。費用。精算。三か月、命を削って魔物と戦ってきた頭には、あまりに馴染みのない言葉が並んでいた。剣の間合いも、魔物の弱点も、瞬時に見抜ける。だがこの言葉たちは、どこに斬りかかればいいのか、まるで見当もつかなかった。


「……つまり、金はもらえるんだな?」


「はい。正しく手続きをしていただければ」


「なんだ、それなら早く言ってくれ。手続きくらいいくらでもしてやる」


 ほっとして、ライルは笑った。世界を救った男に、書類仕事のひとつやふたつ、なんということもない。隣でクロウが「なんだよ脅かすな」と肩をすくめ、セリカが安堵の息をついた。手続きさえ済めば、約束の報酬が待っている。ただそれだけのことだと、このときの彼らは信じていた。


 エルナは無表情のまま、一冊の真新しい帳簿を机に開いた。羽根ペンをインク壺に浸し、こちらを見もせずに問う。


「ではさっそく。まず、王都から魔王城までの交通費。馬車をお使いになりましたか」


「ああ、最初の村まではな。そこからは徒歩だ」


「馬車賃はおいくらでしたか」


「……さあ。クロウ、いくらだったか覚えてるか?」


「俺が覚えてるわけねえだろ。三か月も前だぜ」


「では、馬車賃の領収書はお持ちですか」


 エルナの問いに、ライルは初めて、わずかに言葉を詰まらせた。


「領収書……?」


「はい。お支払いを証明する書類です。日付、金額、宛名、但し書きの記載されたもの」


「いや、そんなもの――魔王を倒しに行くのに、いちいち紙きれなんか受け取るか」


「では、宿泊費はいかがでしょう。三か月の旅程ですと、何泊かは宿をお取りになったかと」


「取った。取ったが」


「その領収書は」


「……ない」


 ペンが、つ、と止まった。


 エルナは初めて顔を上げ、ライルをまっすぐに見た。その瞳には相変わらず何の感情も浮かんでいない。ただ、ひどく静かに、彼女は言った。


「回復薬のお代は。旅の三か月、何本もお使いになったはずですが」


「……ない」


「武具の修繕費は」


「……ない」


「では」


 エルナはペンを置き、両手を机の上で組んだ。そして、世界を救った勇者に向かって、一片の容赦もなく告げた。


「領収書が一枚もない、ということでよろしいですか」


 財務課の、紙を擦る音だけが響いていた。


 ライルは口を開き、何か言おうとして、言えなかった。背後でセリカが「えっ」と小さく声を漏らし、ミラが青ざめ、クロウが「おい、まさか」と呟いた。誰も、たった一枚の紙きれが、これほど重いものだとは思っていなかったのだ。


 三か月。死線を、何度も越えた。仲間を庇って肩を裂かれた夜も、毒に倒れて生死を彷徨った朝もあった。世界中の希望を背負って、たったひとつの命をすり減らして、魔王を斬った。その全ての場面で、彼は確かに金を払っていた。宿に。薬屋に。鍛冶屋に。だが――その一枚も、手元には残っていなかった。


「……いや、待ってくれ」ライルは掠れた声で言った。「俺は、世界を救ったんだぞ。瘴気を晴らして、魔王を倒して、何万人もの命を――」


「存じております」


 エルナは静かに頷いた。その声に、嘲りはなかった。ただ、事実だけがあった。


「世界を救っていただいたこと、心より感謝申し上げます。財務課一同、勇者様には深く敬意を抱いております」


「だったら」


「ですが、それと精算は別でございます」


 彼女は新しい用紙を一枚、机の上に滑らせた。王国指定第七号様式。経費精算書、と表題のついた、何の温かみもない一枚の紙だった。マス目はどこまでも細かく、欄外には小さな字で注意書きがびっしりと刷られている。


「領収書がない場合、立替経費は原則として認められません。報酬のお支払いも、精算の完了が条件となっております」


「そんな……じゃあ、どうすればいいんだ」


「再発行を依頼していただくか、あるいは――」


 エルナはそこで一度言葉を切り、帳簿の隅に記された日付に目を落とした。そして、勇者ライルの三か月を、たった一行で終わらせた。


「いずれにせよ、申請期限は昨日でございました」


 窓の高いところから、祝祭の歓声がかすかに漏れ聞こえてくる。世界を救った英雄を讃える声だ。だがそれは、この紙の海の底までは、もう届かなかった。ライルはただ、手の中の一枚の様式を見つめていた。


世界を救った勇者の、長い長い戦いは――どうやら、ここからが本番らしかった。

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