第27話 魔王城は、もぬけの殻だった。ただ一人を除いて
魔王城の門は、開け放たれたまま傾いていた。三か月前、ライルたちが死闘の末に打ち破った門だ。あのときは、魔物たちが群れをなして襲いかかってきた。だが、今は――不気味なほど静かだった。風が崩れた回廊を吹き抜け、ひゅう、と寂しい音を立てるばかり。魔物の気配は、どこにもなかった。
「……誰もいないな」
ライルは剣の柄に手をかけたまま、城内を見回した。かつて魔王軍の本拠地として、おどろおどろしい威容を誇った城。それが今は、ただの巨大な廃墟だった。玉座の間も、もぬけの殻。魔王が座っていた、あの禍々しい玉座だけが、ぽつんと残されている。
「目当ては、城の売店です」
エルナが城の見取り図を広げた。
「三か月前、勇者様は魔王との決戦の直前、城に攻め入る途中で――城内の売店で最後の補給をしておられます。回復薬と、松明を数点」
「ああ、あれか」
ライルは思い出した。
「魔王城に売店があるって、変な話だがな。魔物どもが武具やら薬やらを売ってた一角があったんだ。最後の薬を、あそこで買った」
一行は、城の奥へと進んでいった。崩れかけた回廊を抜け、薄暗い階段を下りた先に、その「売店」はあった。だが――鉄格子は固く閉ざされ、看板は外され、棚は空っぽ。明らかに、もう営業していなかった。扉には、走り書きの貼り紙が一枚。
『当店は、閉店いたしました。魔王軍の解散に伴い。長らくのご利用、ありがとうございました』
「閉店か……」
ライルは頭を抱えた。
「そりゃ、そうだ。魔王がいなくなったんだ。魔王軍だって解散するよな。売店もたたむわけだ。――でも、それじゃ誰に領収書を頼めばいいんだ」
この旅で初めての行き止まりだった。店がないのではない。店を営んでいた魔王軍そのものが、消えてしまったのだ。再発行を頼む相手がいない。さすがのエルナも、貼り紙の前でしばし考え込んだ。
そのときだった。城の奥から、こつ、こつ、と足音が近づいてきた。一行は、ぱっと身構えた。誰もいないはずの城に、人の気配。ライルが聖剣を抜く。だが、現れた人影を見て、彼は思わず、その手を止めた。
巨漢だった。燃えるような赤い髪に、いかつい顔。かつて炎を操り、勇者一行を何度も窮地に追い込んだ、魔王軍の幹部――炎帝バルゴ。四天王の一人だった。だが、その姿は記憶とはまるで違っていた。鎧の代わりに、きっちりとした商人風の上着を着込み、手には革の鞄。胸には、小さな名札を下げている。
「……勇者、ライル」
バルゴはライルを見て、低くうなった。一瞬、城に緊張が走る。だが、次の瞬間、バルゴはその鞄から、さっと一枚の紙を取り出した。
「おお、これはちょうどいい! ご無事でしたか! いやあ、あなたほどの方なら、ぜひお話を聞いていただきたい。――『万一の備え』について、考えたことはありますかな?」
「……は?」
ライルは、ぽかんとした。聖剣を握ったまま。
「申し遅れました。私、今はこういう者でして」
バルゴは、うやうやしく名札を見せた。そこには、こう書かれていた。
――『安心生命保険・営業部 バルゴ』
「魔王軍が解散しましてな。職を失った。この年で再就職は厳しいかと思いきや……いやあ、人生、わからんものです。今は生命保険の営業をしております。なかなか、性に合っておりまして」
ライルは、聖剣を握ったまま固まっていた。かつて、自分を炎で焼き殺そうとした宿敵。その男が今、満面の営業スマイルで生命保険を売り込んでいる。「万一の備え」を。あまりの落差に、頭がついていかなかった。隣で、クロウが「ぶっ」と吹き出した。
「バルゴ……お前、四天王だろう。世界を滅ぼそうとしてた魔王軍の幹部だろう。それが、なんで生命保険を」
ライルが、ようやく声を絞り出した。
「いやあ、お恥ずかしい」
バルゴは豪快に笑った。
「だが、考えてもみてください。魔王様がいなくなった。我々四天王は、明日から無職です。家族もいる。食っていかねばならん。――炎を操る力は、もういらん時代だ。だが、人と話すのは得意でしてな。脅すのも説得するのも、根は同じ。気づけば、保険の営業が天職でしたよ」
「待て待て、信じられん」
ライルは頭を振った。
「お前とは三回も、死ぬか生きるかで斬り合ったんだぞ。あの炎の城で。なのに、今は保険の話か」
「ええ、あのときは本気で、あなたを焼き殺そうとしました」
バルゴは、けろりと認めた。
「ですが、終わったことです。魔王様は敗れた。私は負けた。負けたほうが、いつまでも恨み言を言っていても仕方がない。それより、明日の暮らしです。――勇者殿。恨みより生活。これは、敗者の知恵ですぞ」
その妙に実感のこもった言葉に、ライルは毒気を抜かれてしまった。確かに、目の前のこの男はもう、魔王軍の幹部ではない。家族を養う、一人の営業マンだった。
「しかし、奇遇ですな」
バルゴは、しみじみと城を見回した。
「私も今日は、久しぶりにこの城に来たんですよ。なに、昔の職場が懐かしくてね。栄えていたころは、この回廊にも魔物がひしめいていた。みな、どこへ行ったやら」
彼の声には、かつての敵にも確かにあった、職場への郷愁のようなものがにじんでいた。勝者も敗者も、過ぎ去った日々を懐かしむ気持ちは、同じなのかもしれない。ライルは、その横顔を見て、不思議と胸が温かくなるのを感じた。
エルナが、その様子を興味深そうに見ていたが、ふと本題を切り出した。
「バルゴさん。あなた、魔王城にお詳しいですね。実は、この売店で勇者様が買い物をした領収書を再発行したいのです。ですが、店は閉店し、魔王軍は解散した。――誰に頼めばよいか、ご存じありませんか」
「ほう、領収書を」
バルゴは顎をなでた。
「あの売店を仕切っていたのは……ああ、確か経理担当の魔物がおりましたな。几帳面な奴で。売上を一枚残らず記録していた。あいつなら、当時の記録を持っているかもしれん。――だが、あいつが今、どこで何をしているかは」
彼は、にやりと笑った。
「ちょうどいい。我々、元四天王は月に一度集まって、近況を報告し合っておるのです。名づけて、『元・魔王軍 異業種交流会』。次の集まりで聞いてみましょう。きっと、見つかりますよ」
ライルは、ようやく聖剣を鞘に納めた。かつての宿敵が転職し、異業種交流会で旧交を温めている。その光景は奇妙で、間が抜けていて、けれどなぜか温かかった。魔王が消えた世界で、悪役たちもまた、それぞれの「その後」をたくましく生きているのだ。
世界で一番地味な冒険は、こうして思わぬ再会から、最後の領収書への新たな糸口を手繰りはじめる。次なる手がかりは――元・魔王軍の奇妙な同窓会の中にあった。
「では、三日後。城下の酒場で」
バルゴは革の鞄を、ぽんと叩いた。
「皆、喜びますよ。なにせ、我々を倒した当の勇者殿が訪ねてくるのです。最高の酒の肴だ。――ああ、それと」
彼は去り際に、にやりと笑って付け加えた。
「保険の件、考えておいてくださいね。世界を救った英雄にも、万一はありますから」
その、どこまでも営業根性の抜けない一言に、一行は揃って噴き出したのだった。




