第25話 監査官が、規程を愛するようになった理由
霧の谷を抜けたその夜、一行は谷の向こうの平原で、野営をした。そして、その焚き火の輪に、めずらしい客が加わっていた。監査官ザイデルである。これまで、影のように後ろをついてくるだけだった彼が、その夜は、自分から火のそばに、腰を下ろしたのだ。
「監査の一環だ」ザイデルは、ぶっきらぼうに言った。「夜のあいだに、書類を、すり替えられては、かなわん。だから、見張る。それだけだ」だが、誰もその言葉を真に受けなかった。クロウが、にやにやしながら、椀によそった煮込みを、彼に差し出す。「ま、そう言わずに。食えよ、監査官さん。腹が減ってちゃ、監査もできねえだろ」ザイデルは、しばらく、その椀を、にらんでいたが、やがて、ぶっきらぼうに受け取り、一口、すすった。その鋭い目が、ほんのわずか見開かれた。
「……悪くない」彼は、小さく、つぶやいた。
焚き火が、静かに、爆ぜていた。しばらくの沈黙のあと、エルナが、ふと口を開いた。「ザイデル殿。ひとつ、お尋ねしてもよろしいですか。あなたは、なぜ、そこまで、規程に、厳しいのですか。一枚の領収書の、ほんのわずかな不備すら、見逃さない。その厳しさには――何か、理由がおありのように、お見受けします」
ザイデルは、すぐには答えなかった。火を見つめ、長い沈黙が流れた。やがて、彼はぽつりぽつりと、語りはじめた。
「……昔、私が、若い監査官だったころの話だ」彼の声は、いつもの抑揚のなさの奥に、深い、苦さを、含んでいた。「ある村の、税の監査をした。帳簿に、わずかなほころびがあった。だが、私は、見逃した。村の者が、気のいい連中で、頼まれて、つい、情に流されたのだ。『これくらい、いいだろう』と。――その、わずかなほころびが、数年後、とんでもない大穴になった」
「大穴?」ライルが、尋ねた。
「小さなごまかしが、許される。それが、村中に、伝わった。皆が、少しずつ帳簿をごまかしはじめた。誰も、咎められないのだから。やがて、村の帳簿は、誰にも信じられないものになった。税が、正しく集まらなくなった。村の蓄えが、底をついた。――そして、不作の年が、来た」ザイデルの、握る拳に、力がこもった。「蓄えのない村は、飢饉に、耐えられなかった。多くの者が、死んだ。私が、あのとき、たった一つのほころびを、見逃さなければ。情に流されず、規程の通りに、正していれば。――あの村は、救えたかもしれない」
焚き火の輪に、重い沈黙が落ちた。ザイデルの厳しさの裏に、こんな痛ましい後悔が、あったとは。彼が、一枚の領収書の不備すら見逃さないのは、意地悪でも、保身でもなかった。小さなほころびが、いつか、人の命を奪うことを、彼は、誰よりも骨身にしみて、知っていたのだ。
「それ以来、私は、誓った」ザイデルは、静かに言った。「二度と、見逃さない。どんなに、小さなほころびも。どんなに、相手が、気のいい者でも。情に、流されない。それが、私の罪滅ぼしだ。――だから、エルナ殿。あなたの旅を、私は徹底的に検める。あなたが、誠実であればあるほど、なおさらだ。たった一つの、見落としも許さない。それが、あの村への、せめてもの、手向けなのだ」
「……あんた、その村のこと、ずっと、背負ってきたのか」クロウが、めずらしく、神妙な顔で言った。「十年以上もか。きついな、それは」「きつくはない」ザイデルは、首を振った。「忘れることのほうが、よほど、こわい。あの村のことを、忘れたら、私は、また同じ過ちを、繰り返す。だから、忘れない。一枚の不備を見るたび、あの村を思い出す。それが、私の生き方だ」彼の言葉に、もう、刺々しさはなかった。あるのは、ただ、自分の務めに、命を懸ける者の、静かな覚悟だけだった。
ライルは、その横顔を見て、ふと、思った。この男もまた、エルナと同じ、孤独な戦いを、続けてきたのだ。誰にも理解されず、ただ「厳しい監査官」と、煙たがられながら。だが、その厳しさの一つひとつが、本当は、見えないどこかで、誰かの命を、守っていたのかもしれない。剣で魔物を斬る英雄だけが、世界を救うのではない。こうして、机の上で、一枚の紙のほころびを、見逃すまいとする者たちもまた、別のやり方で、世界を、守っているのだ。
エルナは、しばらく、何も言わなかった。そして、静かに、口を開いた。「……ザイデル殿。あなたと、わたしは、同じものを、見ているのですね」彼女の声は、これまでで、いちばん、やわらかかった。「あなたは、ほころびが、人を殺すことを、知っている。だから、規程で、それを、防ごうとする。わたしは、ほころびのない、正しい記録が、人を救うことを、知っている。だから、規程で、それを、守ろうとする。――裏と表。ですが、見ているものは、同じ。『規程は、人の命に、つながっている』。その一点を、わたしたちは、二人とも信じている」
ザイデルは、はっと、エルナを見た。その鋭い目が、めずらしく揺れていた。十年以上、たった一人で背負ってきた後悔。誰にも、理解されないと思っていた、その厳しさの、本当の意味を。今、目の前のこの女が、まっすぐに、言い当てたのだ。「……あなたは」彼は、かすれた声で言った。「妙な、人だ。私の厳しさを、責めるでもなく、恐れるでもなく。――同じものを見ている、と言うか」
「あの村は、あなたのせいでは、ありません」エルナは、静かに、しかし、はっきりと言った。「ほころびを見逃したのは、確かに、過ちでしょう。ですが、ごまかしを広げたのは、村の人々です。不作を招いたのは、天です。あなた一人が、すべてを背負う必要は、ございません。――それでも、あなたは、背負うのですね。背負うと決めた。それは、罰ではなく、あなたの、優しさです」その言葉に、ザイデルは、長いあいだ、火を見つめたまま、動かなかった。やがて、ほんの小さく、「……そう言ってくれたのは、あなたが、初めてだ」と、つぶやいた。十年以上、誰にも言えなかった重荷が、その一言で、ほんの少しだけ、軽くなったようだった。
「ええ。ですから」エルナは、まっすぐに、彼を見た。「どうぞ、心ゆくまで、あらためてください。わたしは、あなたの厳しさを、ありがたく思います。あなたが、徹底的に検めて、なお『文句なし』と認めてくださったなら。それは、誰にも、覆せない、本物の精算になる。あなたの厳しさこそが、この旅を、本物にしてくれるのです」
ザイデルは、長いあいだ、エルナの顔を見つめていた。そして、ふっと、肩の力を抜いた。「……承知した」彼は、立ち上がった。「では、引き続き、最後まで、見届けさせてもらう。――敵としてでは、なく。同じものを、信じる者として」その夜、初めて、監査官の背中から、刺すような冷たさが、消えていた。ライルは、その後ろ姿を見送りながら、しみじみと思った。この旅は、領収書だけでなく、人と人のあいだの見えない壁も、一枚ずつ、剥がしていくのだと。世界で一番地味な冒険は、最強の好敵手を、いつしか、最も心強い同志へと、変えはじめていた。魔王城は、もう、すぐそこ。だが、その手前に、最大の難関――あの、上限を超えた『黒霧の宿』が、待っていた。一泊、金貨三枚。規程の上限の、三倍。この旅で、最も手ごわい、一枚になるはずだった。




