第24話 霧の谷の出張所には、十年待ち続けた職員がいた
霧の谷の手前は、相変わらず白い霧に包まれていた。魔王が消えても、この谷の霧だけは晴れないらしい。三か月前、ライルたちは、ここを、亡者と戦いながら、命がけで抜けた。そのときは、足元の道を確かめるだけで、精一杯だった。脇道にある建物になど、目をやる余裕は、まるでなかった。
「このどこかに、あるはずなのです」エルナが、地図を片手に、霧の中を、目を凝らした。「魔王城へ続く道の、霧の谷の、手前。王国の、出張所が。――勇者様が、討伐完了届を、出しそびれた、あの場所が」
しばらく霧の中を進むと、それはあった。道から少し外れた岩陰に、ひっそりと。古びた、小さな小屋。扉の上に、かすれた字で『王国出張所・霧の谷支所』と書かれた、木の札が、下がっていた。三か月前、確かに、ここを、通り過ぎていたのだ。気づきもせずに。
「……こんなところに」ライルは、呆然と、つぶやいた。「これじゃ、気づけるわけがない。霧で、五歩先も見えなかったんだ。あのとき」
エルナが、扉を、こんこんと叩いた。返事は、ない。もう、誰もいないのかもしれない。こんな辺鄙な、霧の谷の出張所だ。とうに、打ち捨てられていても、おかしくない。だが、もう一度叩こうとした、そのとき――内側から、がたり、と音がして、扉が、ゆっくりと、開いた。
現れたのは、年老いた、小柄な男だった。色あせた、しかし、きちんと手入れされた王国の制服を着て、背筋を、ぴんと伸ばしている。男は、霧の中に立つ一行を見て、ぱちぱちと、目をしばたたいた。そして、信じられない、というように、声を震わせた。
「……お客、様、ですか。本当に、お客様、ですか」
「ええ。王国財務課の者です」エルナが、名乗った。「こちらで、手続きを、お願いしたく」
老人の目に、みるみる、涙が、盛り上がっていった。「……来て、くださった。とうとう、来て、くださった」彼は、震える手で、一行を、中へと招き入れた。「わたしは、ここの、支所長の、モーリスと申します。――この出張所に、お客様が、いらっしゃるのは。実に、十年ぶり、でございます」
一行は、言葉を、失った。十年。この老人は、誰も来ない、霧の谷の出張所で、たった一人、十年間、客を、待ち続けていたのだ。小屋の中は、塵ひとつなく、磨き上げられていた。受付の台も、書類の棚も、いつ客が来てもいいように、完璧に、整えられている。十年間、ただの一人も来ない場所で、彼は、毎日、この小屋を、掃除し、整え、制服を着て、客を待っていた。
「なぜ……」ライルは、思わず、尋ねた。「十年も、誰も来ないのに。なぜ、ここを、守ってたんだ」
「それが、わたしの、持ち場だからです」モーリスは、当たり前のように、答えた。「王国から、この出張所を、任されました。いつ、誰が、来るかわからない。霧の谷を抜ける旅人が、討伐完了届を、出しに来るかもしれない。期限の延長を、求めに来るかもしれない。――そのとき、ここが、閉まっていては、いけない。たった一人のお客様のために、ここは、開いて、いなければならない。それが、わたしの、務めなのです」
エルナは、その言葉を聞いて、深く、胸を打たれたようだった。彼女もまた、地下二階の財務課で、来る日も来る日も、地味な仕事を、続けてきた。誰に、誉められるでもなく。この老人の、十年は、決して、他人事では、なかったのだ。
「モーリスさん」エルナは、静かに切り出した。「実は、こちらの勇者様が、三か月前、この谷を、抜けられました。ですが、霧で、この出張所に、気づけなかった。そのために、討伐完了届を、出しそびれ――申請の、期限を、過ぎてしまったのです」
モーリスの顔が、さっと引き締まった。「……それは、わたしの、落ち度でございます」彼は、深く、頭を下げた。「霧が、深い日でした。あの日。わたしは、霧で、お客様の通行に、気づけなかった。本来であれば、谷を抜ける旅人に、こちらから、声をかけ、お知らせするべきでした。『討伐完了届は、お済みですか』と。それを、怠った。勇者様が、期限を過ぎたのは――気づかなかった、わたしの、責任でございます」
「いや、あんたのせいじゃない」ライルは、慌てて言った。「霧が、深すぎたんだ。誰も、悪くない」だが、エルナの目は、別のものを、見ていた。彼女は、ふいに、はっと、何かに気づいたように、顔を上げた。
「モーリスさん。ひとつ、お尋ねします」エルナの声が、わずかに、高ぶった。「この出張所には――旅人の、通行の記録は、残っておりますか。いつ、誰が、この谷を、抜けたか。その記録は」
「もちろん、ございます」モーリスは、胸を張った。「客は、来ずとも。通行の記録だけは、欠かさず。霧の晴れ間に、谷を抜ける人影を、見るたびに。日付と、人数を、書き留めて、おりました。十年分、すべて」彼は、奥から、分厚い記録簿を、運んできた。
エルナの手が、その記録簿を、めくっていく。やがて、三か月前の、ある日付で、止まった。「――ございました」彼女の声が、震えた。「『この日、霧深し。されど、四名の旅人、谷を東へ抜けるを、確認す。武装せる者あり。勇者ご一行と、思わる』。日付も、人数も、すべて、記されています。これは――勇者様が、確かに、この日、ここを通った、という、動かぬ証拠です」
「それだけでは、ございません」エルナは、続けて、記録簿の別の頁を、めくった。「モーリスさん。この記録があれば、勇者様は、ただ通行を証明できるだけでは、ありません。――『討伐完了届の、期限後提出』を、今、ここで、受理していただけませんか。あなたは、この出張所の、支所長。届けを受理する、権限を、お持ちのはずです」
「もちろん、できます」モーリスは、背筋を伸ばした。「ですが、期限は、すでに、過ぎております。三か月前の届けを、今、受理するには――」「『天災その他、本人の責めに帰さぬ事由により、期限内の提出が不能であった場合、事由消滅後すみやかに提出すれば、これを受理する』」エルナが、規程を、暗唱した。「あの日の、深い霧。それは、まぎれもなく、『本人の責めに帰さぬ事由』です。あなたの通行記録が、その霧の深さを、証明している。――この谷の霧こそが、勇者様の、何よりの、味方なのです」
モーリスは、震える手で、しかし、十年待った務めを、ようやく果たせる喜びに、顔を輝かせて、届けの用紙を、取り出した。日付を書き、霧による通行不能の事由を記し、自らの通行記録を、添付する。そして、十年間、ただの一度も押すことのなかった、霧の谷支所の判を――ぺた、と、押した。その判の音は、小さかったが、ライルには、フェルゼンの机の判の音より、ずっと、重く、温かく、響いた。
ライルは、息をのんだ。フェルゼンが、求めていた、あの宿題。「なぜ、期限を守れなかったのか」。その答えを裏づける、決定的な記録が、この、十年間、誰も訪れなかった出張所の、たった一人の職員の、几帳面さの中に、確かに、残されていたのだ。
「モーリスさん」エルナは、その記録簿を、両手で、押しいただいた。「あなたの、十年が――勇者様を、救います。誰も来ない場所で、あなたがただ一人、記録をつけ続けてくれた。その地道な務めが、今、世界を救った英雄の名誉を、守るのです。あなたの十年は、決して無駄ではありませんでした」モーリスの目から、とうとう涙がこぼれ落ちた。十年間、誰にもその意味を認められなかった務め。それが、今、確かに、誰かを、救った。世界で一番地味な冒険は、こうして、世界で一番孤独な務めと、出会ったのだった。




