第23話 お金を使わない村で、領収書はどう作るのか
街道を外れ、山道を登った先に、火竜の里は、あった。かつて、火を噴くドラゴンが棲んでいた、あの山のふもとの集落だ。三か月前、ライルたちは、ここで、最後の回復薬を買い込んだ。魔王城を前にした、補給の村だった。ザイデルは、約束通り、少し離れた後ろから、影のように、ついてくる。
里は、以前より、ずっと、穏やかになっていた。ドラゴンの脅威が去り、人々の顔には、安堵が浮かんでいる。一行が、薬を買った店を訪ねると、店主の女が、ライルを見るなり、涙を流して、喜んだ。「勇者様! あのドラゴンを、倒してくださった……! おかげで、里は、救われました。何度、お礼を言っても、足りません!」
「いや、礼なら、こっちこそだ」ライルは言った。「あんたの薬で、俺たちは、魔王城まで、たどり着けた。――それで、頼みがあるんだ。あのとき買った薬の、領収書を、再発行してもらえないか」
「もちろんです! いくらでも! ……あの」店主の顔が、ふと、くもった。「領収書って、どう、書けば。うちの里では、お金を、使わないんです。だから、そういう紙を、書いたことが、なくて」
「お金を、使わない?」ライルは、目を丸くした。
「はい。この里は、昔から物々交換なんです」店主は、説明した。「薬がほしい人は、米や、布や、山の幸を持ってくる。それと、薬を、交換する。お金なんて、見たことも、ない人がほとんどで」彼女は、申し訳なさそうに、続けた。「勇者様も、あのとき、お金じゃなくて……確か、倒した魔物の、立派な牙を、何本か、置いていってくださいました。それと、薬を、交換したんです」
ライルは、思い出した。確かに、あのとき、手持ちの金貨が、心もとなかった。だから、道中で倒した魔物の牙――薬の材料になる、貴重なものだ――を、代金代わりに、置いていったのだった。お金は、一枚も、払っていない。
「……これは、困りましたね」ライルは、エルナを見た。「金を払ってないんじゃ、領収書も、書きようがないんじゃないか? いくら、って金額が、ないんだから」
これまでの相手は、お金のやりとりは、あった。ただ、紙が、なかっただけだ。だが、今度は、お金そのものが、存在しない。金額の書きようがない領収書を、どうやって作るのか。さすがのエルナも、これには、詰まるのではないか――ライルは、そう思った。後ろで見ているザイデルも、わずかに、身を乗り出したようだった。
だが、エルナは、まったく、動じなかった。
「問題ございません」彼女は、すらすらと言った。「お金のやりとりがなくとも、『価値のあるもの同士の交換』は、立派な取引です。これを、『現物取引』と申します。規程には、こうございます。『金銭を介さぬ取引においては、交換された物品の、市場価値をもって、取引額とみなす』」
「つまり?」
「勇者様が支払った『魔物の牙』が、いくらの価値だったかを、決めるのです」エルナは、店主に尋ねた。「ご主人。その牙は、今、おいくらほどで、取引されますか。薬の材料として、貴重なものでしょう」「ええ、とても。あの牙、何本かを、町の薬問屋に持っていったら、金貨で、五枚にもなりました」「では」エルナは、ペンを走らせた。「その牙の市場価値、金貨五枚。これが、取引額です。『回復薬、数本。代金として、魔物の牙を提供。その市場価値、金貨五枚相当』。こう記せば、お金を一枚も使わずとも、立派な、領収書になります」
店主は、目を丸くした。お金を使ったことのない自分が、領収書を書ける。それも、勇者の置いていった牙の値打ちで。「そんな、書き方が、あるんですか……!」彼女は、感心しきりで、エルナの言う通り、里の判――木彫りの、素朴なしるし――を、ぺた、と押した。
「ひとつ、勉強になりました」店主は、しみじみと言った。「この里も、これからは、ときどき、町の人が、お金を持って、薬を買いに来ます。ドラゴンが消えて、道が、安全になりましたから。そのとき、領収書の書き方を知っていれば、安心です。――勇者様だけでなく、わたしたちの、これからのためにも、なりました」
その様子を、少し離れて見ていたザイデルが、ふと、近づいてきた。「……現物取引の、市場価値換算か」彼は、エルナの書いた領収書を、横から、検めた。「牙の価値の裏づけは。『町の薬問屋で金貨五枚』――その問屋の名は、聞いたか」「聞いております」エルナは、すかさず答えた。店主に確かめ、問屋の名と場所まで、すでに但し書きに添えてあった。「後日、その問屋に照会すれば、価値は確定できます」ザイデルは、しばらく、その一枚を見つめ、それから、小さく、息を吐いた。「……隙が、ない。相変わらず、だ」彼は、それ以上、何も言わず、また、後ろへと、退がっていった。
領収書を受け取ったあと、エルナは、めずらしく、自分から、店主に、いろいろなことを尋ねた。物々交換では、値段を、どうやって決めるのか。米一俵と、薬一本は、どう釣り合うのか。揉めごとは、起きないのか。店主は、にこにこと、答えた。「決まった値段なんて、ないんですよ。その日の、その人の、必要に応じて。困っている人には、多めに。余裕のある人からは、少し多く。長い付き合いの中で、自然と、釣り合っていくんです」
「……それは」エルナは、しばらく、考え込んだ。「帳簿には、決して、書ききれない仕組みですね。数字ではなく、人と人の、信頼で、回っている。わたしの知る『取引』とは、まるで、違う」彼女の声には、批判ではなく、むしろ、深い敬意が、こもっていた。十年、彼女は、すべてを数字で測ってきた。だが、この里には、数字の外側で、何百年も、まっとうに回り続けてきた、もう一つの経済が、確かに、存在していた。「世界は、広いですね」エルナは、つぶやいた。「机の上だけでは、決して、知り得なかった」
後ろで聞いていたザイデルが、ふと、口を開いた。「……エルナ殿。あなたは、変わった役人だ」彼の声は、相変わらず、抑揚がなかった。「監査官として、私なら、こう書く。『貨幣を用いぬ未整備の取引慣行。要・是正指導』と。だが、あなたは、それを『懐の深さ』と呼ぶ。同じ規程を読んで、なぜ、そうも、見え方が違う」「規程を、何のためのものと、考えるか。その違いでしょう」エルナは、静かに答えた。「あなたは、規程を『正すための、ものさし』と見る。わたしは、規程を『守るための、傘』と見る。――どちらも、間違いでは、ございません。ただ、わたしは、傘でありたいのです」ザイデルは、何も答えなかった。だが、その鋭い目が、ほんの一瞬、揺れたのを、ライルは、見た気がした。
里を出るとき、エルナは、ぽつりと言った。「規程というものは、面白いものです。お金を使う取引も、使わない取引も、ちゃんと、想定して、作られている。世界には、いろいろな暮らしがある。お金で回る町もあれば、物々交換の里もある。――そのどれもを、こぼさずに、すくい上げようとする。それが、規程の、本当の懐の深さなのです」彼女の声には、自分の信じるものへの、静かな誇りが、にじんでいた。世界で一番地味な冒険は、お金すら使わない里の暮らしまで、一枚の紙に、優しく書きとめて、いよいよ、魔王城へと続く、険しい道へと、入っていく。次に待つのは――三か月前、命がけで抜けた、あの、霧の谷。亡者のさまよう、あの谷の手前に、ライルが見落とした、王国の出張所が、あるはずだった。




