第22話 監査官ザイデル、ついに姿を現す
先回りする男は、思いのほかあっけなく姿を現した。次の町の入り口で、その男が堂々と一行を待ち構えていたのだ。
やせて背の高い男だった。黒い、きっちりとした服。笑わない鋭い目。小脇に分厚い書類の束。鍛冶師の言った通りの風体だ。男は近づいてくる一行を値踏みするように眺め、それから抑揚のない声で名乗った。
「王国監査室のザイデルと申す。勇者ライル殿、ならびに――財務課のエルナ殿ですな」
「あんたか」ライルは思わず身構えた。「俺たちの旅を邪魔して回ってるのは」
「邪魔とは心外な」ザイデルは眉ひとつ動かさなかった。「私は監査をしているだけです。前代未聞の出張命令――勇者が世界の果てまで領収書を取りに行く。こんな無茶をフェルゼン課長が認めた。ならば、それが本当に正しい精算なのか。一点の不正もないか。誰かが検めねばならない。それが監査の務めです」
「だが、あんたは店に嘘を吹き込んだ」エルナが静かに、しかし鋭く言った。「『再発行に応じれば、罪に問われる』と。それは監査ではありません。妨害です」
「――半分は認めよう」ザイデルは少しの間を置いて言った。「私は確かに、各地の店を先回りして回った。帳面を検め、『記録はすべて残しておけ。いずれ検める』と告げた。監査の予告だ。それは監査官の正当な務め。――だが」その目が初めて、かすかに険しくなった。「『再発行に応じるな』とも、『応じれば罪に問われる』とも、私は一言も言っていない。ましてや、証拠もなくあなたの名を貶めるなど。監査官は証拠の前でしか人を疑わない。噂をまき散らすのは――監査ではない。ただの中傷だ」
「……では、あの嘘を店に吹き込んだのは、あなたではない、と」エルナが静かに問うと、ザイデルはきっぱりとうなずいた。「私ではない。だが――聞き捨てならん話だ。おそらく、店々を回った者は私のほかにもう一人いる。同じ役人風の男が。店の者にその区別はつくまい。私の監査に便乗して、誰かがこの旅そのものを潰そうとしている。……心に留めておこう」エルナはその言葉を受け止めて、まっすぐに言った。「結構です。正しい再発行であれば、監査の予告など何も恐れることはない。げんに店主たちは皆、堂々と判を押してくれました。やましいことがないからです。――ザイデル殿。あなたの監査、どうぞお好きなだけなさってください。わたしどもの集めた領収書には、一枚の嘘もございません」
二人の視線が、火花を散らすようにぶつかった。剣も魔法もない、規程と規程のにらみ合い。ライルは固唾をのんで、その対峙を見守った。これは自分には手の出せない戦いだった。エルナとザイデル。同じく規程を知り尽くした者どうしの、静かで、しかしこれ以上なく本気の戦いだった。
「……では、さっそく」ザイデルは書類の束をひらいた。「あなた方がこれまで集めた領収書を、あらためさせていただこう。一枚ずつ。不備がただの一つでもあれば――この旅はその時点で、不正の疑いありとして王に報告いたします」
エルナはためらわず、鞄からこれまでの領収書をすべて取り出した。はやて亭の焼き印。灯火屋の 宿帳の写し。薬師ドルフの誇り高い証文。鍛冶屋の一枚。関所の「後日確定」の控え。――一枚、また一枚。ザイデルはそれを恐ろしく細かく検分していった。日付。金額。但し書き。署名と印。エルナがフェルゼンの前で検分を受けたとき以上の執拗さだった。
検分のあいだ、ザイデルは一枚ごとに鋭い問いを投げかけてきた。「この灯火屋の宿代、なぜ半額なのか。減額の事実はどう裏づける」「薬師ドルフの証文、薬の種類がここまで詳しい。本人が書いた証拠は」――その一つひとつに、エルナはよどみなく答えていった。宿帳の写しを示し、ドルフ自身の筆跡を指し、規程の該当箇条を暗唱してみせる。問いと答えの応酬は、まるで達人どうしの剣の打ち合いのようだった。打ち込めば受け止められ、また打ち込む。ザイデルの繰り出すどの一太刀も、エルナの構えを崩せなかった。
「ねえ……あの二人、何の話をしてるのか半分もわからないけど」セリカが小声でライルに言った。「すごい戦いをしてるってことだけはわかるわ」「ああ」ライルもうなずいた。「魔王と斬り合ったときよりぴりぴりしてる。エルナさん、一歩も引いてないな」彼は誇らしさすら覚えていた。剣を持たぬ仲間がたった一人、規程という武器だけで王国の監査官と互角に渡り合っている。これも立派な英雄の戦いだった。
町の広場で、その検分は半日に及んだ。やがて、ザイデルの指が関所の控えで止まった。「……これだ」彼の目が光った。「関所の通行料。これには税の区分が記されていない。『後日確定』とある。――税の扱いも定まらぬ、不完全な控え。これは不備ではないのか」
ライルの心臓が跳ねた。だが、エルナは表情ひとつ変えなかった。
「ザイデル殿。あなたほどの方が、ご存じないはずがございません」エルナは静かに言った。「規程にこうございます。『課税・非課税の判定が、その場で不能な場合、納税者に不利にならない方を選び、後日、正式な照会をもって確定する』。――この控えはまさに、その規程に正しくのっとっております。『後日確定』と明記することこそが、規程の求める正しい処理。これを不備と言うなら、規程そのものを否定することになります」
ザイデルの検分する手が止まった。彼はしばらく、その控えとエルナの顔とを見比べていた。そして――ふっと、口元にかすかな笑みのようなものを浮かべた。それは敵意ではなく、むしろ好敵手を認めるような表情だった。
「……見事だ」ザイデルはつぶやいた。「その通りだ。これは不備ではない。むしろ、規程に忠実すぎるほど忠実な処理だ。関所が直営か委託かわからぬまま、いいかげんに『税込み』とでも書いていれば、私はそこを突けた。だが、あなたはわからぬものをわからぬまま、正しく残した。――付け入る隙がない」
彼は書類の束を静かに閉じた。「エルナ殿。正直に言おう。私はあなたを、規程を悪用する不正の徒だと思っていた。フェルゼン課長をたぶらかした、と。――だが、違ったようだ。あなたは私がこれまで会った誰よりも、規程に誠実だ」
「では、監査はこれでお仕舞いですか」エルナが問うた。
「いや」ザイデルは首を振った。その目にまた鋭い光が戻る。「監査は続ける。あなたが誠実であればあるほど、私は確かめねばならない。最後の一枚まで。なぜなら――もし、この旅が本当に一点の曇りもなく成し遂げられたなら。それは王国財務にとって、極めて重大な前例になる。その重大な前例を、私はいいかげんな監査で認めるわけにはいかない。徹底的に検め、そのうえで文句なしと認める。それが私の誠意だ」
エルナはその言葉を聞いて、ふと表情をやわらげた。「……あなたは敵ではないのですね」「さあ、どうかな」ザイデルは背を向けた。「魔王城まで私も行かせてもらう。あなた方のすぐ後ろを。一枚でもほころびが出れば、その瞬間に旅は終わる。――せいぜい、完璧であることだ」そう言い残すと、彼は足早に人混みへと消えていった。
残された一行は、しばらく言葉もなかった。「……敵なのか、味方なのかわからねえ男だな」クロウが頭をかいた。「両方でしょう」エルナは消えていったザイデルの背を見つめて言った。「あの方は規程を心から愛しておられる。だからこそ、いいかげんを許せない。――手強い相手です。ですが」彼女の目に闘志が宿った。「これほどやりがいのある相手もおりません。あの方に『文句なし』と言わせること。それができれば、この旅は本物になります」世界で一番地味な冒険は、最強の好敵手を得て、いよいよ本当の正念場へと向かっていく。




