第21話 誰かが、先回りしている
異変に気づいたのは、次の宿場町、鍛冶屋を訪ねたときだった。
三か月前、ライルが刃こぼれした聖剣以外の武具を直してもらった、腕利きの鍛冶屋。だが、いつものように領収書の再発行を頼むと、屈強な鍛冶師は急に気まずそうに目をそらした。「……すまねえ。それはできねえんだ」
「できない? なぜだ」ライルは戸惑った。「あんた、確かに俺の武具を直してくれただろう。代金も払った。領収書をもう一度書いてくれるだけでいい」
「いや、それが……」鍛冶師は声をひそめた。「数日前、王都から来たっていう役人風の男が寄っていってな。言ったんだ。『近く、勇者一行が領収書の再発行を求めて来る。だが、決して応じるな。あの再発行は、不正の疑いがある。下手に書けば、お前も不正に加担した罪に問われるぞ』と。――だから、その、おっかなくて」
ライルとエルナは顔を見合わせた。役人風の男。先回り。再発行を妨害している。一行がまだ来てもいない町に、誰かが先に手を回していたのだ。
「その男、ほかに何か言っていませんでしたか」エルナが鋭く尋ねた。
「ああ……『あの財務課のエルナという女は、規程を悪用して、ありもしない経費をでっち上げようとしている。だまされるな』と。そんなようなことを」鍛冶師は申し訳なさそうにうつむいた。「おれぁ、字も難しいこともわからねえ。役人にそう言われちゃ、信じるしか……」
エルナの表情は変わらなかった。だが、その指先がわずかにこわばったのを、ライルは見逃さなかった。「規程を悪用して、経費をでっち上げる」――それは彼女にとって、何より許しがたい言いがかりだった。誠実に数字を扱うことだけを、生きる支えにしてきた、この人にとって。
「ご主人」エルナは静かに、しかし、まっすぐに言った。「ひとつだけお尋ねします。あなたは三か月前、勇者様の武具を直しましたか。直さなかったのですか。それだけお答えください」
「……直した。確かに直したとも。折れかけた槍と、ひしゃげた盾を夜通しかけて」鍛冶師ははっきりと言った。「あれは、おれの自慢の仕事だった。世界を救う武具を直したんだ。忘れるもんか」
「では、何も問題はございません」エルナはきっぱりと言った。「あった取引を、あった通りに書く。それを不正とは申しません。不正とは、なかった取引をあったことにすることです。あなたが直した。代金を受け取った。その事実を紙にする。それは世界で一番まっとうなことです。――どこの誰が何を吹き込んだか知りませんが、あなたは罪になど問われません。それは、わたしが王国財務課の名にかけて保証いたします」
その声には揺るぎない確信があった。鍛冶師はしばらくエルナの目を見ていた。そして、その目の中に、嘘やごまかしの影がまるでないことを見て取ったらしい。「……あんた、本物の役人だな」彼はぽつりと言った。「あの、こそこそした男とは目つきが違う。わかった。書くよ。おれの仕事に嘘はねえ」
「その役人風の男ってのは、どんな奴だった?」ライルは鍛冶師に尋ねた。「背格好とか、顔つきとか、覚えてるか」
「やせた、背の高え男だった。黒っぽい、きっちりした服を着てな」鍛冶師は記憶をたどった。「なんつうか……笑わねえ男だ。目だけがやたら鋭くてな。書類の束を小脇に抱えて、おれの店の帳面までじろじろ見ていきやがった。『記録はすべて残しておけ。いずれ検める』と、そう言い残してな」
「記録をあらためる……」エルナの目が、すっと細くなった。「監査ですね。その男、ただの妨害者ではありません。各地の店の帳面を確かめ、勇者様の再発行とつじつまが合うかを調べて回っている。一つでも食い違いがあれば、そこを突いて、『勇者の精算は信用ならない』と王に訴えるつもりでしょう」彼女は静かに続けた。「厄介な相手です。やみくもに妨害するのではなく、こちらの粗を冷静に探している。――おそらく、相当に規程を知る者です」
「規程を知ってる敵か」ライルはうなった。「あんたと同じ土俵の相手ってわけだ」「はい」エルナはうなずいた。「ですが――こちらには一つも嘘がございません。あった取引を、あった通りに集めている。どれだけ冷静に調べられても、ほころびは出ません。正直であることが最大の守りです」その言葉に、ライルは心強さを覚えた。見えない敵がいる。だが、こちらの足元には一点の曇りもないのだ。
こうして鍛冶屋の領収書も、無事に手に入った。だが、一行の胸には重いもやが残った。野営の火を囲みながら、ライルは腕を組んだ。「先回りして、再発行を邪魔してる奴がいる。しかも、エルナさんを名指しで悪者にしてな。――いったい誰だ。何が狙いだ」
「心当たりがないわけではございません」エルナは火を見つめて言った。「思い出してください。フェルゼン課長が、この旅に出張命令書を出してくださった。四十年で初めての、特例に近い決裁でした。――それを面白く思わない者が財務にはおります。前例を破ること、新しいことを何より嫌う者たちが」
「つまり、この旅を失敗させたい奴がいるってことか」ライルの目が鋭くなった。「俺たちが領収書を集めきって、経費が認められちまったら都合の悪い奴が」
「おそらく」エルナはうなずいた。「この旅が成功すれば、『領収書をなくしても、再発行の旅に出れば救われる』という前例ができます。それを嫌う者がいる。前例ができれば、また誰かが同じことを求める。規程がゆるむ。――そう考える者が」彼女は少し声を落とした。「皮肉なものです。それは本来、フェルゼン課長が最も大切にしてきた考えでもあるのですから。前例を軽々しく作らない。その信念をねじ曲げて、悪用する者がいる」
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。これまでの旅は、一軒ごとの心温まる出来事の積み重ねだった。だが、ここへ来て旅は別の色を帯びはじめた。見えない誰かが先回りし、この旅そのものを潰そうとしている。しかも、その刃はエルナの誠実さそのものへと向けられていた。
「エルナさん」ライルは静かに言った。「気にするなとは言わない。腹が立つよな。あんたの一番大事にしてるものを踏みにじろうとしてるんだ。――でも、これだけは言える。俺は、あんたが一度だって、ずるい数字を書いたところを見たことがない。この旅でずっと見てきた。あんたほどまっすぐな奴はいない。だから、何を言われたって俺はあんたを信じる。仲間みんな、同じ気持ちだ」
セリカが、クロウが、ミラが、それぞれ深くうなずいた。エルナはその四人の顔を順に見て、それから、ほんの少し目を伏せた。「……ありがとうございます」その声は、いつもよりわずかに震えていた。「では――なおさら、この旅を成功させねばなりません。一枚残らず領収書を集めて、誰にも文句のつけようのない完璧な精算を作り上げる。それが、わたしへの言いがかりに対する何よりの答えです」
その夜、エルナの目には、これまでにない強い光が宿っていた。見えない敵の登場は、しかし、彼女をひるませはしなかった。むしろ、その誠実さをより固く研ぎ澄ましていた。世界で一番地味な冒険は、ここから、ただの心温まる旅ではなく、見えない敵との静かな戦いの様相を帯びはじめる。東の空の、まだ見ぬ道の先で、その「先回りする男」が待っているのだった。




