第20話 焚き火の夜、台帳に載らないものを数える
その日は宿のある町までたどり着けなかった。街道のなかばで日が暮れ、一行は野原のはずれに野営をすることになった。エルナにとっては、生まれて初めての屋根のない夜だった。クロウが手際よく火をおこし、セリカが鍋をかけ、ミラが水を汲んでくる。それぞれが当たり前のように役割をこなしていく。三か月の旅で体に染みついた段取りだった。
エルナはその様子を手伝うでもなく、ただもの珍しそうに見ていた。何をどうすればいいのかわからないのだ。机の上の仕事なら、誰よりも速く正確にこなせる。だが、火のおこし方も鍋のかけ方も、彼女は何ひとつ知らなかった。「……わたしは何をお手伝いすれば」と所在なげに尋ねる彼女に、ライルは笑って言った。「今日は座ってな。旅の初心者は、まず見て覚えるもんだ。俺たちだって、最初は火ひとつまともにおこせなかった」
やがて、鍋からいい匂いが立ちのぼってきた。クロウがどこかで仕入れてきた肉と、野の香草の素朴な煮込み。湯気の立つそれを木の椀によそって、エルナに手渡す。「ほら、食いな。台帳にゃ絶対載ってない味だぜ」
エルナはおそるおそる一口すすった。その瞬間、彼女の目がわずかに見開かれた。「……おいしい」つぶやきが漏れた。けっして上等な料理ではない。むしろ粗末な旅の食事だ。だが、一日歩き通した体に、その温かさはしみわたった。冷たい財務課の机の上では決して味わえなかった、生きた温かさだった。「こんなものが……銀貨数枚の食材が、こんなにもおいしいとは」
「だろ?」クロウが得意げに笑った。「腹が減って、体が冷えて、一日歩いたあとに食う飯ってのはな、城のごちそうよりずっとうまいのさ。これが旅の味だ」
焚き火を囲んで、夜はゆっくりと更けていった。セリカが旅の途中の失敗談を面白おかしく語る。クロウがそれに大げさな合いの手を入れる。ミラがくすくすと笑う。ライルは火を見つめながら、その輪を温かく見守っていた。エルナはその談笑を、最初はただ聞いていた。だが、いつのまにか彼女もその輪の中に自然と溶け込んでいた。
「ねえ、エルナさん」セリカがふと尋ねた。「あなたって、財務課に入る前は何をしてたの? ずっと書類の仕事?」
「……わたしは」エルナは火を見つめて、少しためらってから答えた。「孤児でした。小さいころ身寄りをなくして。そんなわたしを王国の財務課が引き取ってくれたのです。読み書きと計算を教えてくれました。行き場のなかったわたしに、『数字を正しく扱う』というたったひとつの生きる術を授けてくれた。――だから、わたしにとって規程と帳簿は、ただの仕事道具ではないのです。わたしを拾ってくれた命綱なのです」
焚き火がぱちりと爆ぜた。誰もすぐには言葉を返せなかった。彼女がなぜあれほどまでに規程を信じ、数字に誠実であろうとするのか。その根っこに、こんな深い理由があったとは。ライルは初めて、エルナという人の芯に触れた気がした。決まりは人を守るためにある――彼女がいつも口にするその言葉は、ほかでもない、彼女自身が決まりに守られて生きてきた者の実感だったのだ。
「わたしも似たようなものよ」セリカが火に小枝をくべながら言った。「魔法学院じゃ変わり者扱いされてた。おばあちゃんの古い杖なんか使って、って。居場所がなかったの。でも、ライルが『その杖、かっこいいな』って言ってくれて。それだけでついてきちゃった」「俺なんざ、ただの食い詰め盗賊さ」とクロウが笑う。「捕まりかけてたところを、こいつに助けられてな。義理でついてきただけだ。……まあ、今じゃ悪くない仲間だと思ってるがな」ミラも静かに微笑んだ。「わたしは神に仕える身。困っている人を放っておけませんでした。それだけです」
エルナはその一人ひとりの話を、まるで大切な書類を読むように静かに聞いていた。剣の腕や魔法の才で集まったわけではない。みなどこかに居場所のなかった者たち。それがライルのもとに集まり、いつのまにか家族のような輪になっていた。台帳の上では、ただの「勇者ご一行・四名」。だが、その四という数字の裏に、こんなにもたくさんの物語が折りたたまれていたのだ。
「あの……わたしにも何かさせてください」エルナがふいに言った。ただ食べて聞いているだけでは、申し訳なくなったらしい。「火の番でも洗い物でも。教えていただければ」「じゃあ、鍋を洗ってきてくれるか」とクロウが椀を渡す。エルナはそれを持って川辺へ向かった。だが、しばらくしてびしょ濡れになって戻ってきた。「……鍋を流れに落としました。追いかけて捕まえましたが」その生真面目な報告に、一同はどっと笑った。規程は完璧に諳んじる財務官が、鍋ひとつまともに洗えない。その不器用さが、なんだか無性に愛おしかった。
「いい話を聞かせてもらった」ライルは静かに言った。「あんたがなんで、そんなに書類を大事にするのか。今、やっとわかった気がするよ。あんたにとっちゃ、紙きれ一枚もいいかげんにできない。それは、自分を救ってくれたものをいいかげんにできないってことだもんな」
「……そんな大層なものでは」エルナはめずらしく口ごもった。その頬が焚き火のせいだけではなく、ほんのり赤らんでいた。「ただ、わたしはわたしにできることをしているだけです。剣も魔法も使えませんから」
「いや、あんたのは立派な力だよ」ライルはまっすぐに言った。「この旅で何度も見た。あんたの規程は、字の書けないじいさんを救い、跡継ぎの青年を救い、偏屈な薬師の誇りを守った。剣じゃできなかったことだ。――あんたがいなけりゃ、この旅は一歩も進まなかった。あんたは立派な俺たちの仲間だ」
エルナはしばらく何も言わなかった。ただ、火の向こうのライルの顔をじっと見ていた。「仲間」――その言葉を、彼女は生まれて初めてかけられたのかもしれない。財務課では、彼女は優秀な職員ではあったが、誰かの「仲間」だったことはなかった。冷たく、正確で、近寄りがたい。そう思われ続けてきた。だが、この焚き火の輪の中で、彼女は今、確かに四人の冒険者の一人として数えられていた。
「……ありがとう、ございます」エルナはようやく小さく言った。そして、いつもの帳簿を取り出すと、その日の終わりの記録をつけはじめた。だが、その手は経費の数字ではなく、もっと違うものを書きつけているようだった。ライルがそっとのぞき込むと、そこにはこう記されていた。――『野営。煮込み、温かし。皆の笑い声。仲間、という言葉。いずれも台帳に載らず。されど、確かにここにありき』。
それは経費の記録ではなかった。値段のつけられない、けれど何より確かなものたちの記録だった。十年、数字だけを数えてきたこの人が、今、生まれて初めて数字にならないものを数えはじめていた。ライルは何も言わず、また火に目を戻した。星空の下、焚き火は静かに燃え続けている。明日もまた東へと歩く。世界で一番地味な冒険は、紙の上の数字を取り戻すだけでなく、数字にならないものの値打ちを一人の財務官に少しずつ教えていくのだった。




