第19話 「証文などいらん」と言い張る、偏屈な老薬師
山あいの小さな薬屋だった。看板も出していない、知る人ぞ知る一軒。だが、ここで売られる回復薬は、効き目が桁違いだと旅人のあいだで評判だった。三か月前、ライルたちもここで何本もの薬を買い込んでいる。あの薬がなければ、旅はもっと早くに潰えていたかもしれない。
薬屋の主は、白髪を振り乱した偏屈そうな老人だった。名をドルフという。一行が訪ねると、ドルフは薬研を挽く手も止めず、じろりとこちらを見た。「なんだ、客か。薬なら、そこの棚から好きに取れ。代金は置いていけ」
「いえ、今日は薬を買いに来たのではないのです」エルナが前に出た。「三か月前、勇者ライル様がこちらで購入した回復薬。その領収書を再発行していただきたく」
ドルフの薬研を挽く手が、ぴたりと止まった。彼はゆっくりと顔を上げ、しわがれた声でこう言い放った。
「――証文など書かん」
「は?」
「わしは四十年、薬を作ってきた。一度も証文なんぞ書いたことがない」ドルフは、ふん、と鼻を鳴らした。「わしの薬は効く。効けば、それでいい。飲んだ者が生き返る。それがすべてだ。誰が、いつ、いくらで買ったか。そんな紙きれに、何の意味がある。薬の値打ちは効き目で決まる。紙の上では決まらん。――帰れ。証文なんぞ書く気はない」
取りつく島もなかった。クロウが「頑固じじいだな……」とぼやいた。ライルも困り果てた。これまでの相手は、字が書けないとか、店が代替わりしたとか、事情があった。だが、ドルフは書けるのに、書く気がない。職人としての固い信念で、証文というものを頭から拒んでいるのだ。
だが、エルナは引かなかった。彼女はドルフの前に、静かに向き合った。
「ドルフさん。あなたのお薬への誇り、しかと受け止めました。効き目がすべて。まったく、その通りだと思います」エルナは、まず相手を認めた。「ですが、ひとつだけお聞かせください。――あなたのお薬は、なぜこんなにも効くのですか」
「決まっておる。わしが心を込めて作っとるからだ」
「その『心』は目に見えますか」エルナは静かに問うた。「見えませんね。薬の効き目も、飲んでみるまでわかりません。あなたの四十年の腕も、その瓶の中には目には見えない。――では、お尋ねします。あなたがいつかいなくなったあと。あなたのお薬が、どれほどの値打ちだったか。それをいったい誰が証明するのですか」
ドルフが、ぐっと言葉に詰まった。
「証文とは」エルナは続けた。「ただの紙きれではございません。それは、『確かに、ここにこれだけの値打ちのものがあった』という記録です。あなたのお薬を勇者様が命の瀬戸際で飲んだ。その薬が、世界を救う旅を支えた。――その事実を紙に刻む。それは、あなたのお薬の値打ちを百年後の世にまで伝えるということです。効き目は、その場で消えます。ですが、記録は残ります。あなたの四十年を、消えないものにするのです」
薬屋に長い沈黙が流れた。ドルフは薬研を見つめたまま、何も言わなかった。だが、その横顔から、さっきまでの頑なな険しさが少しずつ消えていくのが、ライルにもわかった。エルナの言葉は、職人の誇りを否定しなかった。むしろ、その誇りをもっと遠くへ、もっと長く届ける手立てとして、証文というものを語ってみせたのだ。
「……勇者さん」ドルフがぽつりと、ライルに尋ねた。「あんた、わしの薬で生き返ったか」
「ああ」ライルは迷わずうなずいた。「魔王城へ向かう最後の山道だ。毒の沼で足をやられて、もう動けなかった。そのとき飲んだのが、あんたの解毒薬だ。一口で体に力が戻った。あれがなけりゃ、俺は魔王城にすらたどり着けてなかった。――あんたの薬は世界を救ったんだ。本当だ」
ドルフはしばらく目を閉じていた。そして、ゆっくりと立ち上がると、奥の棚から古ぼけた筆と墨を取り出してきた。「……四十年で初めてだ」彼はぶっきらぼうに言った。「証文を書くのは。だが――わしの薬が世界を救ったってんなら。その証くらいは残しても、ばちは当たらんかもな」
ドルフの書く証文は、お世辞にも達筆とは言えなかった。だが、一字一字、薬を調合するときと同じ丁寧な手つきで書かれていた。日付、薬の種類、本数、金額。そして最後に、彼は頼まれてもいないのに、こう書き添えた。――『この薬、勇者の旅を支えたるものなり。薬師ドルフ、生涯の誇りとす』。
エルナはその一枚を両手で押しいただいた。「……立派な領収書です」彼女の声は、いつもよりほんの少し温かかった。「ドルフさん。あなたの四十年は、これで消えません。ありがとうございました」
だが、エルナはただ証文を受け取って、終わりにはしなかった。彼女はもう一つ、ドルフに大切なことを切り出した。「ドルフさん。差し出がましいようですが――あなたのお薬には、王国薬事院の『認可』がございませんね」
「認可? そんなお上のお墨つきなんぞ、いらん」ドルフは、またむっとした。「効きゃいいんだ」
「効くからこそです」エルナは静かに言った。「以前、勇者様のお薬の代金が、危うく税で重く取られかけました。『認可のない薬は、ただの甘い飲み物と同じ』だと。そう言う役人がいるのです。あなたのこれほどのお薬が、認可がないというだけで、世間から『ただの水』と見なされてしまう。――それは、あまりに惜しい」
ドルフの表情が変わった。自分の薬を「ただの水」と言われることほど、この職人にとって屈辱はなかったのだろう。「……認可ってのは、どうやって取るんだ」と彼はぼそりと尋ねた。「手続きをお手伝いします」エルナは、すかさず答えた。「薬の中身を書き出して、効き目を記録して、薬事院に申し出る。少し手間はかかります。ですが、一度認可を受ければ、これから先、あなたのお薬で命をつなぐすべての旅人が、その薬代を正しく経費にできる。泣き寝入りする人が一人もいなくなります」
ドルフはしばらく考えてから、ふっと口元をゆるめた。「……世話の焼ける役人だ。証文の次は認可ときたか」だが、その声にもう、とげはなかった。「いいだろう。やってみるか。わしの薬が、これから先の旅人を救うってんならな」こうして、偏屈な老薬師は四十年の頑固を二つも、その日のうちに手放したのだった。それも、決して無理強いされたからではない。自分の薬を、もっと多くの人を救う形に変えてくれる――そう信じられたから、自ら手放したのだ。
薬屋を出ると、ライルはエルナに言った。「あんた、すごいな。あの頑固じじいに証文を書かせるなんて。俺なら絶対無理だった」「わたしは、ただ」エルナは前を向いたまま答えた。「証文の本当の意味をお伝えしただけです。多くの人は証文を、面倒な義務だと思っています。ですが、本当は――それは、誰かの仕事や誰かの想いを、時を越えて守るものなのです。ドルフさんは、それをわかってくださった。それだけのことです」その横顔は、自分の信じるものをまた一人に伝えられた喜びに、静かに輝いていた。世界で一番地味な冒険は、こうして頑固な職人の誇りごと、一枚の証文を鞄に収めて、さらに東へと続いていく。




