第17話 魔物の残党に襲われる。そして、破れたマントは今度こそ経費になる
宿場町を出て、街道は、しだいに、ひと気のない山あいへと入っていった。魔王が倒れて、世界は平和になった――はずだった。だが、その平和は、まだ、すみずみまでは行き渡っていない。魔王という頭を失っても、各地には、行き場をなくした魔物の残党が、まだ、うろついていたのだ。
それは、昼下がりのことだった。道の先の茂みが、がさり、と揺れた。次の瞬間、飛び出してきたのは、数匹の、牙をむいた魔物だった。かつて魔王軍に従っていた、下級の魔物。主を失い、飢え、すさんだ目をしている。
「――エルナさん、下がってろ!」
ライルの声が、鋭く飛んだ。次の瞬間には、もう、聖剣が鞘を走り出ていた。エルナは、突然のことに、息をのんで立ちすくんだ。彼女が、本物の戦いを目にするのは、生まれて初めてだった。
それは、財務課の議論とは、まるで違う世界だった。ライルの剣が、風を切って閃く。セリカの杖から、炎の魔法が走る。ミラの祈りが、淡い光で仲間を包み、クロウの短剣が、影のように魔物の懐へ滑り込む。四人の動きは、言葉ひとつ交わさずとも、完璧にかみ合っていた。三か月、生死を共にした者だけが持つ、呼吸だった。エルナは、ただ、その光景に、見とれていた。紙の上の「勇者ご一行」が、今、目の前で、本物の英雄として、躍動していた。
先頭の一匹が、ライルめがけて跳びかかった。ライルは、半歩、身を沈め、その爪をかわすと、すれ違いざまに、一閃。魔物は、声もなく崩れ落ちた。間を置かず、左右から二匹。セリカの「ライル、右!」の声と同時に、彼の体はもう左へ流れ、右の魔物は、追ってきたセリカの炎に呑まれていた。言葉ではない。互いの位置と、息づかいだけで、すべてが通じ合っている。ミラの祈りの光が、ライルのかすり傷を、見えないところで癒していく。クロウは、いつのまにか魔物の背後に回り込み、止めを刺していた。
エルナは、その全てを、瞬きも忘れて見ていた。財務課で、彼女は、この四人を「勇者ご一行・四名」と、一行の文字で記してきた。だが、目の前のこれは、文字には、決して収まらないものだった。三か月の旅が、命のやりとりが、四人の体の隅々にまで、刻み込まれている。それは、どんな精緻な帳簿よりも、雄弁な「記録」だった。
戦いは、長くは、かからなかった。最後の一匹が逃げ去ると、街道には、また、静けさが戻った。ライルが、聖剣を鞘に納め、息を整える。「エルナさん、無事か」と振り返った彼のマントは、魔物の爪で、肩から大きく、裂けていた。
「ご無事ですか、ライル様!」エルナが、駆け寄った。いつもの平らな声が、めずらしく、上ずっていた。「お怪我は。血が……肩が、裂けて」
「ああ、これか。マントが破れただけだ。かすり傷もない」ライルは、笑った。「慣れてるよ、こんなのは。旅のあいだ、しょっちゅうだった」彼にとっては、何でもないことだった。だが、エルナの顔は、青ざめていた。彼女は、震える手で、ライルの破れたマントに、そっと触れた。
「……これが、現場、なのですね」エルナは、つぶやいた。「わたしが、机の上で、『被服損耗届』だの『任務中の負傷』だのと、淡々と書いていたもの。その一行の裏に……こんな、命のやりとりが、あったのですね。火竜でマントが焼けた、と。あのときも、わたしは、ただ事務的に処理していました。ですが――本当は、毎回、こうして、命がけだったのですね」
その声には、深い、悔いのようなものが、にじんでいた。十年、彼女は、勇者たちの戦いを、紙の上の「費目」として、処理してきた。装備の損耗。薬の消費。負傷の手当て。その一つひとつが、こうした、剣と牙のぶつかり合いの果てに生まれていたのだと、彼女は今、初めて、肌で知ったのだ。
「エルナさん」ライルは、優しく言った。「気にするな。あんたが机で処理してくれたから、俺たちは、安心して戦えたんだ。後ろで、ちゃんと数えて、守ってくれる人がいる。それが、どれだけ心強かったか。――それに」彼は、破れた外套を、つまんでみせた。「今回は、これ、経費になるんだろう?」
エルナは、はっと顔を上げた。そして、その言葉の意味に気づくと、いつもの表情を、少しずつ取り戻していった。「……はい。なります」彼女は、鞄から、すっと用紙を取り出した。涙のにじみかけた目で、それでも、手は、もう、いつもの正確さで動きはじめていた。「今回は、出張命令書のある、正式な王国業務の最中です。その任務遂行中に、魔物の襲撃により、装備が損耗した。これは、文句なく――『被服損耗届』の、対象でございます」
「火竜のときは、セリカの濡れ衣で、もめたけどな」ライルが、にやりと笑った。セリカが「もう、その話はやめてよ!」と、頬をふくらませる。一行に、また、いつもの笑いが戻ってきた。
「……ねえ、エルナさん」セリカが、ふと、真面目な顔で言った。「さっき、わたしたちが戦ってるとき、あなた、逃げなかったわね。普通、戦いを知らない人は、腰を抜かすか、逃げ出すかするものよ。でも、あなたは、その場に立って、ずっと、見てた。怖く、なかったの?」
「怖かったです。足が、すくみました」エルナは、正直に言った。「ですが――逃げては、いけないと思いました。わたしは、皆さんの戦いを、見届けるために、ここに来たのです。机の上の規程が、現場で人を守れるのか。その『現場』から、目をそらしては、確かめたことになりません。だから、立っていました。それが、わたしの、仕事ですから」その言葉に、セリカは、目をみはった。剣も魔法も使えないこの人が、自分なりのやり方で、確かに、戦っていたのだ。逃げないという、ただ一点で。
「あんた、見かけによらず、肝が据わってるな」クロウが、感心したように言った。「正直、足手まといになるかと思ってたが……見直したぜ、財務課のお姉さん」「光栄です」エルナは、いつもの調子で答えたが、その耳は、ほんの少し、赤かった。
「今回は、誰の過失でもございません。正真正銘、任務中の損耗です」エルナは、てきぱきと届けを書きながら言った。「裂けた箇所、原因、日時。そして――証人は、ここに、四人。これだけそろえば、完璧です。このマントは、王国が、新調いたします。勇者様が、自腹を切る必要は、ありません」
ライルは、破れたマントを見下ろして、感慨深げに言った。「不思議なもんだな。旅の途中で、何枚もマントを破いてきた。全部、自腹で、買い直してきた。それが当たり前だと思ってた。――でも、本当は、こういうのも、ちゃんと、王国が面倒を見るべきものだったんだな。あんたと出会わなきゃ、一生、知らないままだった」
「世の中の多くの人が、知らないままです」エルナは、静かに言った。「受け取れるはずの補償を、知らずに、自分で払ってしまう。泣き寝入りしてしまう。――わたしは、それが、いちばん、許せないのです。だから、わたしは、規程を覚えました。誰かが、知らずに損をするのを、防ぐために」その横顔には、もう、さっきの動揺はなかった。あるのは、自分の仕事の意味を、改めて噛みしめる、静かな誇りだった。
こうして、破れたマントの損耗届という、思わぬ一枚が、鞄に加わった。魔物との戦いさえも、この旅では、きちんと「経費」になる。剣の冒険と、紙の冒険が、ここでは、ひとつに溶け合っていた。ライルは、肩の破れたマントをはおり直し、東の道を見た。残党は、まだ、いるだろう。だが、恐れることはない。前には剣を持つ仲間が、後ろには規程を持つ仲間が、いる。これほど心強い旅は、ない。一行は、また、ゆっくりと、歩きはじめた。




