第16話 代替わりした宿で、亡き主人の宿帳が領収書を救う
関所を抜けて二日。一行は、街道沿いに栄えた、にぎやかな宿場町に入った。三か月前、ライルたちは、ここで一夜を過ごしている。『灯火屋』という名の、温かい宿だった。主人は、恰幅のいい、よく笑う男で、旅立つ勇者たちに「無事に帰ってこいよ」と、ありったけの料理を振る舞ってくれた。あの夜のことを、ライルは、よく覚えていた。
だが――灯火屋の暖簾をくぐると、出迎えたのは、あの主人ではなかった。まだ若い、二十歳そこそこの青年が、慣れない手つきで、帳場に座っていた。その顔には、どこか、主人の面影があった。
「いらっしゃいませ。あの……お泊まりですか」青年は、ぎこちなく頭を下げた。
「いや、今日は、頼みがあって来たんだ」ライルは言った。「三か月前、ここに泊まった。主人に、よくしてもらった。その、宿代の領収書を、再発行してもらえないかと思って。――ところで、あの恰幅のいい主人は?」
青年の顔が、ふと、くもった。
「……父は、先月、亡くなりました」青年は、静かに言った。「魔王が暴れていたころ、無理をして宿を開け続けて……体を、壊したんです。魔王が倒されて、やっと町が落ち着いて、これからってときに。僕が、跡を継いだばかりで、何も、わからなくて」
一行に、しんとした沈黙が落ちた。あの、よく笑う主人が、もういない。あの夜、勇者たちの無事を祈ってくれた人が。ライルは、かける言葉を、すぐには見つけられなかった。「……そうか。それは、知らなかった。すまない」と、絞り出すのが、やっとだった。
「領収書、ですよね」青年は、気を取り直すように言った。「でも、僕、父がどうやって帳場をつけてたのか、まだ、ちゃんとわからなくて。三か月前の、勇者様の宿代がいくらだったかも……記録が、あるのかどうかも」彼は、申し訳なさそうに、うつむいた。「せっかく来ていただいたのに、お役に立てないかも、しれません」
クロウが、小声でライルに耳打ちした。「主人がいなくて、記録もない、か。これは……無理筋かもな」だが、エルナは、あきらめていなかった。彼女は、帳場の奥に目をやり、青年に、静かに尋ねた。
「失礼ですが――お父様は、宿帳を、つけておられませんでしたか。お泊まりのお客様の名前や、いただいた宿代を、書き留めておく帳面です。どんな宿にも、たいてい、ございますが」
「宿帳……あ」青年は、はっとした。「そういえば、父が、毎晩、寝る前に、何かを書き込んでた帳面が。几帳面な人で、一日も欠かさず……奥に、しまってあるかもしれません」
青年が、奥から運んできたのは、古びた、分厚い帳面の束だった。何冊も、何冊も。亡き主人が、何十年とつけ続けてきた、宿の記録だった。エルナは、その一冊を、うやうやしく手に取ると、三か月前の日付を探して、慎重に、頁をめくっていった。やがて、その指が、ある一行で、止まった。
「――ございました」エルナの声が、わずかに、やわらいだ。「三の月、十一日。『勇者ご一行、四名様。夕餉、特別仕立て。宿代、銀貨十枚のところ、五枚に。残りは、世界を救う餞別なり』」
青年が、息をのんだ。ライルも、胸を突かれた。あの夜、主人は、宿代を半額にしてくれていた。残りの半分は、「世界を救う餞別」だと。それを、口に出さず、ただ宿帳の隅に、そっと書き残していたのだ。恰幅のいい背中で、何でもないことのように、勇者たちを送り出しながら。
ライルの脳裏に、あの夜の光景が、ありありとよみがえった。長い卓いっぱいに並んだ、湯気の立つ料理。焼きたてのパン、こってりした肉の煮込み、果実の酒。「遠慮なく食え! 世界を救うんだ、腹が減ってちゃ話にならねえ!」と、主人は豪快に笑っていた。勘定のとき、ライルが財布を出すと、「いいから、いいから」と手を振って、銀貨を半分だけ受け取った。あのとき、ライルは、ただの気前のいい主人だと思っていた。まさか、その裏で、こんな言葉を、帳面に書き残していたとは。
「あの……ひとつ、いいですか」青年が、おずおずと尋ねた。「父が、半額にしたぶん。それって、勇者様の経費の精算に、何か、迷惑をかけたりは、しませんか。本当はもっと払うはずだったのに、半分しか受け取ってないなんて、帳面が、おかしなことに……」
「ご心配は、いりません」エルナは、はっきりと言った。「お父様が、ご自分の意思で、宿代を減らしてくださった。これは『値引き』として、何の問題もございません。むしろ――勇者様が払った額は、銀貨五枚。その五枚を、正しく経費にする。それだけです。お父様の厚意は、勇者様の負担を、半分、軽くしてくださった。ただ、それだけのこと。帳面は、何も、おかしくなりません」
青年は、ほっとしたように、肩の力を抜いた。継いだばかりの宿で、父のしたことが、誰かの迷惑になっていないかと、ずっと不安だったのだろう。エルナの言葉は、その不安を、そっと、解いてやっていた。
「お父様は」エルナは、静かに言った。「とても、几帳面で――そして、とても、お優しい方だったのですね。この一行に、すべて、書いてございます」
青年は、宿帳の父の字を、じっと見つめていた。その目に、みるみる、涙がたまっていく。「……父さん、こんなこと、一言も言わなかった。半額にしたなんて。餞別だなんて。家じゃ、けち臭いって、母さんに、いつも怒られてたのに」彼は、袖で、ぐいと目をぬぐった。「こんなところで、勇者様に、こんな……」
エルナは、その宿帳の記録をもとに、領収書を、丁寧に作り上げた。日付、宿代の銀貨五枚、但し書きには『宿泊代として(残額は店主の厚意による減免)』。そして、店の判は――青年に、押してもらった。父から継いだ、灯火屋の判を。震える手で、それでも、しっかりと。
「これで、完成でございます」エルナは、その一枚を、両手で、青年に掲げてみせた。「お父様の几帳面さが、三か月の時を越えて、勇者様を救いました。この宿帳は――ただの記録では、ありません。お父様が、毎晩、一日も欠かさず、お客様と向き合ってきた、その証です。どうか、大切に、なさってください」
青年は、宿帳を、胸に抱きしめて、何度も、うなずいた。父が遺したものの本当の意味を、たった今、知ったのだ。ライルは、その姿を、温かい気持ちで見ていた。再発行の旅は、紙を集める旅だ。だが、その一枚一枚の裏には、こうして、人の生きた証が、確かに刻まれている。それを掘り起こすたびに、消えたはずの誰かの優しさが、もう一度、光を取り戻すのだった。
「いい宿だった」宿を出るとき、ライルは、青年に言った。「あんたの親父さんの宿は、本当に、いい宿だった。あんたなら、きっと、いい跡継ぎになれる。――また、いつか、泊まりに来るよ。今度は、ちゃんと、満額払ってな」青年は、涙でぐしゃぐしゃの顔で、それでも、精一杯の笑顔で、一行を見送った。
町を出てしばらく、エルナが、ぽつりと言った。「……ライル様。わたしは、今日まで、宿帳というものを、ただの『記録』だと思っておりました。誰が泊まり、いくら払ったか。それを書き留めておくだけの、味気ない帳面だと」彼女は、鞄の中の領収書を、そっと押さえた。「ですが、違いました。あの宿帳には、お父様の、お客様を思う気持ちが、毎晩、一行ずつ、刻まれていた。記録とは――人の心を、時を越えて、運ぶものなのですね。十年、わたしは、何を見てきたのでしょう」その横顔は、何かを、深く、学んだ者の顔だった。世界で一番地味な冒険は、こうして、また一枚の領収書と、消えかけた一つの優しさを、鞄に収めて、東へと続いていく。




