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勇者、経費で落ちません  作者: みき
第1幕 国内編

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第14話 最初の領収書、字が書けない御者の前で立ち往生する

 出発の村は、二日目の昼過ぎに見えてきた。三か月前、ここから勇者の旅が始まった――そう思うと、ライルの胸には、不思議な感慨がこみ上げた。村は、あのときと変わらず、のどかだった。魔王が消えたおかげで、人々の顔は、出発のときよりも、ずっと明るい。畑には作物が実り、子どもたちが、笑い声をあげて駆け回っていた。


「あれが、はやて亭です」エルナが、旅程表と村の看板を照らし合わせて言った。村のはずれに、馬小屋を併せ持つ、古びた一軒の宿があった。看板には、勢いよく走る馬の絵。あのとき、ライルたちが最初の馬車賃を払った、まさにその店だった。


 店先では、白髪まじりの老人が、せっせと馬の手入れをしていた。あの御者だ。ライルが声をかけると、老人は顔を上げ、しばらくぽかんとしてから、ぱっと破顔した。


「おお、おお! あんた、あのときの勇者さんかい! 魔王を倒したって、村じゅう大騒ぎだったぞ! よくぞ、よくぞご無事で!」


「ああ、おかげさまで。あのときの馬車、助かったよ」ライルは笑った。「じいさんに乗せてもらったのが、旅の始まりだった」


 老人は、涙ぐみながら、ライルの手を、両手で握りしめた。英雄との再会に、心から喜んでいるのが伝わってきた。だが――今日の一行の目的は、感動の再会では、なかった。エルナが、すっと前に出て、いつもの平らな声で、用件を切り出した。


「ご主人。本日は、お願いがございます。三か月前、勇者ライル様がお支払いになった馬車賃。その領収書を、再発行していただきたいのです」


「りょう……しゅう、しょ?」老人は、きょとんとした。「なんだい、そりゃ」


「お支払いを証明する、紙でございます」エルナは、鞄から白紙の用紙を取り出した。「ここに、日付と、いただいた金額、それから『馬車賃として』という但し書き、最後にお店の名前を書いて、判を押していただくだけです。簡単なことですので、ご安心を」


 老人は、その白紙を受け取ると、しばらく、困ったように、それを裏返したり、透かしたりしていた。そして、ぽつりと、言った。


「……すまねえ。わし、字が、書けねえんだ」


 一行に、沈黙が落ちた。ライルは、第七号様式を埋めていたときのことを思い出した。確かに、あのとき、エルナが言っていた。御者は、屋号を口で名乗っただけだった、と。字が書けないなら、領収書など、書けるはずもない。最初の一軒目から、さっそく、思いもよらない壁にぶつかったのだ。


「困ったな……」クロウが、頭をかいた。「字が書けねえんじゃ、領収書はお手上げだ。代わりに俺たちが書くわけにもいかねえんだろ?」


「はい。他人が勝手に書いたものは、領収書として認められません」エルナは答えた。「あくまで、お金を受け取ったご本人が、作成しなければ」


「じゃあ、どうしようもねえじゃねえか」


 だが、エルナは、あきらめていなかった。彼女は、規程集をぱらりとめくり、ある一行に目を落とすと、静かに顔を上げた。


「ご主人。ひとつ、お尋ねします。字は書けなくとも――ご自分の名前の印や、お店のしるしは、お持ちですか。荷物につける焼き印や、馬具に押す、屋号のしるしのようなものは」


「ああ、それなら、あるぞ」老人は、小屋の奥から、古い焼き印を持ってきた。馬具に押す、はやて亭の屋号のしるしだった。「これを、麻袋やら馬具やらに、ぺたぺた押すのよ。これが、わしの店のしるしだ」


「結構でございます」エルナは、うなずいた。「規程では、こうございます。『署名が困難な場合、本人の意思に基づく記号・印影をもって、これに代えることができる』。――つまり、文字の代わりに、この屋号のしるしを押していただければ、それは立派な、ご本人の証明になります」


 エルナは、てきぱきと動いた。日付と金額と但し書きは、彼女が読み上げ、老人が「その通りだ」と認めた内容を、補助者として書き取る。そして、肝心の「店の証明」の部分にだけ、老人自身の手で、はやて亭の焼き印を、ぺた、と押してもらう。文字の読めない老人でも、自分の店のしるしを押すことだけは、誰よりも慣れた手つきで、しっかりとできた。


「これで、完成でございます」エルナは、出来上がった一枚を、うやうやしく掲げた。日付、金額、但し書き、そして、力強く押された、馬のしるし。それは、世界で初めての、文字のない領収書だったが――規程の上では、まぎれもなく、有効な一枚だった。


「ほう……これが、領収書ってもんかい」老人は、自分の焼き印が押された紙を、しげしげと眺めた。「わしの店のしるしが、王様のお城で、役に立つのかい。なんだか、不思議なもんだなあ」


「役に立ちます。とても」エルナは、その一枚を、丁寧に鞄へとしまった。「このしるし一つで、勇者様の払った馬車賃が、王国に、正しく認められます。ご主人のこのしるしは、勇者様の名誉を、守るのです」


 老人は、それを聞いて、くしゃりと、顔をほころばせた。字も書けない自分の、たった一つの焼き印が、世界を救った勇者の役に立つ。それが、たまらなく誇らしいようだった。「だったら、いくらでも押してやるぞ! ほら、もう一枚、もう一枚!」と、はしゃぐ老人を、ライルたちは笑いながらなだめた。


「ところで、エルナさん」帰り際、ライルは、ふと気になって尋ねた。「もし、あのじいさんが、焼き印も持ってなかったら? 字も書けない、しるしもない。そうなったら、領収書は、どうやっても取れなかったのか」


「その場合は、さらに別の手を使います」エルナは、歩きながら答えた。「『支払証明書』という方法です。お金を払った側――つまり勇者様が、『いつ、誰に、いくら払ったか』を申し立て、それを、第三者が証言で裏づける。たとえば、馬車に同乗していた、ほかの村人。あるいは、取引を見ていた宿の者。証人さえ立てば、領収書がなくとも、支払いの事実を、証明できます」


「へえ……いろんな手が、あるもんだな」ライルは、感心した。「行き止まりに見えても、規程の中に、ち ゃんと別の道が、隠されてる」


「規程とは、そういうものです」エルナは、静かに言った。「冷たく見えて、その実、あらゆる『困った場合』を、想定して作られています。字が書けない人。しるしを持たない人。証明する手立てのない人。――そういう人たちを、どうにかして救おうと、何百年もかけて、少しずつ書き足されてきた。それが、規程集なのです。だから、わたしは、この分厚い綴りを、嫌いになれないのです」その言葉には、いつもの事務的な響きの奥に、規程というものへの、静かな愛情のようなものが、にじんでいた。ライルは、はじめて、この財務官が、なぜここまで規程にこだわるのか、その理由の一端に、触れた気がした。


 こうして、再発行の旅の、記念すべき一枚目が、手に入った。たった一枚。だが、ライルにとっては、魔王城で最初の魔物を斬ったときと、同じくらいの手応えがあった。隣を見れば、エルナが、その一枚を鞄にしまいながら、ほんの少しだけ、満足げな顔をしている。机の上の規程が、現場で、ちゃんと人を救った。その小さな証明が、彼女には、何より嬉しいのだろう。


「いい滑り出しだ」ライルは、東の空を見た。まだ見ぬ村が、町が、関所が、その先に、いくつも待っている。一軒ごとに、きっと、思いもよらない壁が立ちはだかるだろう。だが――エルナがいる限り、道は、きっと、見つかる。「さあ、次へ行こう。領収書を、取り戻しに」一行は、老人に見送られ、また東へと、歩きはじめた。世界で一番地味な冒険の、本当の始まりだった。



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