第13話 財務課のエルナ、生まれて初めて城門の外に出る
出発の朝は、よく晴れていた。王都の東門に集まった一行は、勇者ライル、魔法使いセリカ、僧侶ミラ、盗賊クロウ、そして――旅装に身を包んだ財務課のエルナ。いつもの紺の制服の上に新しいマントをはおり、背には規程集の詰まった大きな鞄を背負っている。その姿は、どう見ても旅人らしくなく、むしろ「迷子になった役人」のようだった。
「では、参りましょう」
エルナは、いつもの平らな声で言った。だが、東門の大きな扉が、ぎいと音を立てて開かれた、その瞬間――彼女の足が、ぴたりと止まった。
門の向こうに、世界が広がっていた。どこまでも続く緑の草原。その上を、ゆったりと流れていく白い雲。遠くに霞む青い山々。風が草を波のように揺らし、名も知らぬ鳥が高い空を横切っていく。十年間、地下二階の小さな窓からしか空を見てこなかったエルナにとって、それは想像のどれをも超えた光景だった。
「……広い」
エルナは、ぽつりとつぶやいた。
その一言には、いつもの事務的な響きはまるでなかった。ただ、純粋な驚きと、かすかな震えだけがこもっていた。ライルは、その横顔を見て思わず笑みをこぼした。世界を救った自分たちにとっては、見慣れた、ただの草原。だが、この人の目には、それが生まれて初めて見る「外の世界」として、まぶしく映っているのだ。
「いい眺めだろう」
ライルは言った。
「これが、外の世界だ。あんたが、机の上で何百回も書いてきた『現地』ってやつさ」
「……はい」
エルナは、しばらくその景色から目を離せずにいた。それから、はっと我に返ったように咳払いをして、表情を引き締めた。
「失礼しました。先を急ぎましょう。最初の目的地は、出発の村。はやて亭。馬車賃の領収書を、再発行してもらいます」
彼女は鞄から白紙の領収書の束と旅程表を取り出した。だが、その手が、ほんの少しいつもより速く動いていることに、ライルは気づいていた。きっと内心では、まだあの草原に心を奪われたままなのだろう。
歩きながら、ライルはふと尋ねた。
「なあエルナさん。十年も、ずっと地下にいて、外に出たいと思わなかったのか」
「思いませんでした」
エルナは即答した。
「外の世界は、わたしには関係のない場所だと思っていました。わたしの世界は、机の上にあり、規程の中にあり、帳簿のマス目の中にありました。そこには、すべての答えがあった。外に出る理由がなかったのです」
彼女は少し間を置いて、続けた。
「ですが――今は、少し違います。フェルゼン課長がおっしゃいました。『机の上の規程が、世界の果てで、本当に人を守れるのか、確かめてこい』と。わたしは、それを確かめたい。十年信じてきたものが、本物かどうかを」
「本物だと思うか?」
「わかりません」
エルナは正直だった。
「ですから、行くのです。わからないことは、現場で確かめる。それが、いちばん確かな方法です」
その言葉に、ライルは深くうなずいた。剣士も同じだ。机の上で剣術書をいくら読んでも、強くはなれない。実際に斬り合って、初めて技は身につく。この人は財務官だが、その芯のところは、きっと自分たち冒険者とそう変わらないのだ。
道中、エルナは何を見ても、いちいち足を止めた。
道ばたに咲く野の花を見ては「これは……規程集に載っていた、薬草の原料でしょうか」とつぶやき、放牧された羊の群れを見ては「あれが、家畜資産の現物ですか。台帳でしか見たことが」と目を丸くした。川にかかった木の橋を渡るときには、欄干をそっと撫でて「この橋の建設費は、どこの課の予算だったのでしょう」と、誰も聞いていない疑問を口にした。何もかもが、彼女にとっては、書類の上の文字が現実になった瞬間だったのだ。
「エルナさんって、面白い人ね」
セリカが、くすくす笑った。
「景色を見ても、ぜんぶ書類の話になるんだもの」
「……すみません。つい、癖で」
エルナは、少しばつが悪そうに言った。
「十年、数字と文字ばかり見てきたものですから。世界が、こんなにもいろいろな『現物』でできているとは、思っていませんでした。羊一頭の値段は知っていても、羊が、あんなにもこもこしているとは、知りませんでした」
「もこもこは、台帳に載ってないもんな」
クロウが、げらげら笑った。
「いいぜ、エルナさん。この旅で、台帳に載ってないもんを、たっぷり見せてやる。羊の毛も、星空も、焚き火で焼いた肉の味もな」
「焚き火で焼いた肉……それは、食費として計上――」
「だから、それは今度こそ領収書をもらうんだろ?」
ライルが笑って言った。
「肉を売ってくれた村人に、ちゃんと一筆。宛名は王国財務課、但し書きは『食料代として』。今回の旅は、それができる。出張命令書があるからな」
「……ご理解が、本当に早くなられました」
エルナは、めずらしく感心したように言った。
「財務課に来たばかりのころは、『領収書など知るか』とおっしゃっていたのに」
「あんたに、みっちり仕込まれたからな」
ライルは頭をかいた。
「おかげで今じゃ、宿に泊まるたび、領収書をもらわないと落ち着かない体になっちまった。世界を救った勇者が、だぞ。笑える話さ」
「笑える話ではありません」
エルナは真顔で言った。
「それは、立派な成長でございます。領収書をもらう習慣のある勇者は、世界にライル様ただお一人です」
その言葉が本気なのか冗談なのか、誰にも判別がつかなかった。だが、ライルはなぜだか、ひどく誇らしい気持ちになった。剣の腕でも、魔王を倒した功績でもなく、「領収書をもらう習慣」を、この人に褒められたことが。
「焚き火で焼いた肉、本当に旨いんだぜ」
クロウが話を戻した。
「エルナさんも、今夜あたり食ってみな。台帳にゃ絶対載ってない味だ」
「……いただきます。ただし、領収書と引き換えに」
「まだ言うか!」
「またそれかよ!」
一行は、どっと笑った。エルナだけが、なぜ笑われたのかわからず、きょとんとしていた。だが、その戸惑った顔も、財務課にいたときの能面のような無表情とは、どこか違っていた。少しずつ、ほんの少しずつ、この生真面目な財務官の中で、何かがほどけはじめているようだった。
やがて、日が傾きはじめたころ、一行は最初の宿場で足を止めた。旅の初日。エルナにとっては、生まれて初めての城の外での一夜だった。彼女は宿の素朴な部屋をもの珍しそうに見回し、それから、几帳面にその日の出来事を帳簿に記しはじめた。「初日。城門を出る。草原。羊。橋。野の花」――それは、経費の記録ではなく、まるで生まれて初めての日記のようだった。
「エルナさん。それ、何の記録だ?」
ライルが、のぞき込んで尋ねた。
「……業務日誌です」
エルナは、とっさに帳簿を閉じた。その耳が、また少し赤くなっていた。
「出張中の出来事を記録するのも、財務課の務めですので」
「ふうん」
ライルは、それ以上追及しなかった。だが、彼にはわかっていた。あれはきっと、業務日誌などではない。十年ぶりに――いや、生まれて初めて、外の世界に出た一人の人間が、その目に映ったものを忘れたくなくて、書きとめているのだ。経費でも、規程でもない、ただ自分のために書く、初めての文字。
窓の外で、星が瞬きはじめていた。地下二階の窓からは、決して見えなかった星空だ。明日には、いよいよ最初の領収書の再発行が待っている。世界で一番地味な冒険は、こうして静かに、けれど確かに一歩目を踏み出したのだった。明日からの道のりが、どんな珍事を運んでくるのか――それは、まだ誰も知らない。




