第12話 領収書を取りに行く旅に、また新しい書類が必要だった
再発行の旅に出る。腹は決まった。だが、その翌日、エルナの口から出たのは、ライルの予想を、見事に裏切る一言だった。
「では、旅に出る前に、まず書類を作りましょう」
「……また、書類か」ライルは、がっくりと肩を落とした。「旅に出るのにも、書類がいるのか」
「いります」エルナは、きっぱりと言った。「考えてみてください。この旅は、領収書を取り戻すための旅。つまり、王国の業務のための旅です。であれば、今回の旅でかかる費用――馬車賃、宿泊費、食費――それもまた、経費になります」
ライルは、目をしばたたいた。言われてみれば、その通りだ。今度の旅で、また宿に泊まり、馬車に乗り、飯を食う。その金を、自腹で払えば、また同じことの繰り返しになる。経費の精算をするための旅で、新たな経費が生まれ、その経費の精算が、また必要になる。
「待ってくれ。じゃあ、こういうことか? 経費を取り戻す旅の経費を、ちゃんと経費にするには――」
「『出張命令書』が必要です」エルナは、新しい用紙を取り出した。「これは、『王国が、正式に、この旅を命じた』という証になる書類です。これがあれば、今回の旅でかかる費用は、最初から経費として認められます。今度こそ、領収書を一枚も、なくさずに」
「つまり、前と同じ失敗を、二度はしないための書類か」ライルは、ようやく腑に落ちた。「……今回は、なるほど、確かに、いるな」
「ご理解が、早くなられました」エルナは、ほんのわずか、口元をやわらげた。財務課に通いはじめたころのライルなら、「旅に書類などいるか」と一蹴していただろう。だが今の彼は、書類の意味を、その面倒くささごと、理解しはじめていた。それは、剣の腕とは違う、もう一つの成長だった。
「ただし」エルナは、声の調子を、少し落とした。「出張命令書を出せるのは、課長の権限です。つまり――フェルゼン課長の、決裁がいります」
またしても、あの男だった。ライルは、覚悟を決めて、紙の山の奥へと向かった。フェルゼンは、今日も変わらず、判を押し続けている。ライルは、出張命令書の願いを、できるだけ筋道立てて、説明した。期限の問題を解くため、そして領収書を取り戻すために、再発行の旅に出たい。その旅を、正式な王国の業務として、認めてほしい、と。
フェルゼンは、しばらく、ライルの話を聞いていた。そして、ぽつりと言った。
「……魔王城まで、領収書を取りに行く、と」めずらしく、わずかに眉を動かした。「四十年、財務課にいるが、そんな出張は、聞いたことがない。世界の果てまで、紙きれ一枚のために旅をする勇者など」
「ばかげてると思うか」ライルは、まっすぐに尋ねた。
「いや」フェルゼンは、首を振った。「むしろ――正しい。領収書をなくしたなら、再発行を受ける。それが、規程の定める、唯一の正しい手だ。それを、世界の果てまで実行しようという者は、お前が初めてだ」老人は、ペンを取った。「出張命令書、認めよう。ただし、条件がある」
「条件?」
「この旅には、財務課の人間を、一人、同行させる」フェルゼンの目が、ちらりと、エルナのほうへ向いた。「領収書の再発行には、正しい作法がいる。宛名、但し書き、日付、印。一つでも欠ければ、また無効になる。素人だけで行かせれば、せっかく取った領収書も、また使えん紙の山になるだけだ。――専門家を、つける」
財務課の空気が、ざわりと動いた。エルナが、わずかに目を見開いて、フェルゼンを見た。
「エルナ」フェルゼンは、彼女の名を呼んだ。「お前が、行け。この勇者の精算を、最初から見てきたのは、お前だ。最後まで、見届けてこい」
「……わたしが、ですか」エルナは、めずらしく、戸惑ったような声を出した。「財務課を、それほど長く、空けることになります。よろしいのですか」
「かまわん」フェルゼンは、もう判を押しはじめていた。「お前は、いつも言っておるだろう。『決まりは、人を守るためにある』と。――ならば、その決まりを、現場で、見届けてこい。机の上の規程が、世界の果てで、本当に人を守れるのか。その目で、確かめてこい」
エルナは、しばらく、言葉を失っていた。それから、深く、頭を下げた。「……承知、いたしました」その声は、いつもの平らな調子だったが、ほんのわずか、震えていた。四十年、机の前に座り続けてきたこの男が、彼女に、机の外へ出ることを命じた。それが何を意味するのか、ライルには、まだよくわからなかった。だが、エルナにとって、それは、ただの出張ではないようだった。
その夜、ライルは、出発の支度をする財務課に、こっそり立ち寄った。すると、薄暗い灯りの下で、エルナが、机の中身を、一つずつ片づけていた。インク壺、予備の羽根ペン、何冊もの規程集。それを、丁寧に旅の鞄へと詰めている。その手つきは、いつもの事務作業とは、どこか違って見えた。慣れない手で、慣れないことをしている――そんな、ぎこちなさがあった。
「エルナさん。まだ仕事か」ライルが声をかけると、彼女は、少しだけ驚いたように顔を上げた。
「……旅の支度です。何を持っていくべきか、判断がつかなくて」エルナは、正直に言った。「お恥ずかしい話ですが、わたしは、この財務課から、ほとんど出たことがないのです。十年、この机の前に座り続けてきました。王都の外へ出るのは――実は、生まれて、初めてなのです」
ライルは、思わず、言葉を失った。世界を救う旅で、いくつもの国を越え、山を踏破し、海を渡ってきた自分。その自分が当たり前に思っていた「外の世界」を、この人は、まだ一度も見たことがないのだ。規程のすべてを諳んじ、どんな役人も論破するこの財務官が、霧の谷も、火竜の里も、魔王城も、ただ書類の上の文字としてしか、知らないのだった。
「……怖いか?」ライルは、静かに尋ねた。
「怖く、ありません」エルナは即答した。が、少しの間のあと、こう付け加えた。「いえ……正直に言えば、少し。机の上では、わたしは、決まりですべてを裁けます。ですが、外の世界に、決まりは通じるのでしょうか。領収書を書けない御者。潰れてしまった宿。決まりの通りにいかないことばかりのはずです。――わたしの知っている規程が、現場で、本当に役に立つのか。それを、確かめるのが、少し、怖いのです」
「役に立つさ」ライルは、笑った。「あんたの規程は、この財務課で、何度も俺を救ってくれた。聖剣の件も、税の件も、セリカの杖も。決まりってやつは、あんたが使うと、ちゃんと人を守る武器になる。――だから、外でも、きっと役に立つ。俺が保証する」
エルナは、しばらく、その言葉をかみしめていた。それから、小さく、けれど確かに、うなずいた。「……ありがとうございます。少し、楽になりました」その横顔は、いつもの無表情の奥に、ほんのわずか、これから見る世界への、期待のようなものをのぞかせていた。
こうして、再発行の旅の一行に、もう一人、心強い仲間が加わった。剣も魔法も使えないが、王国のどんな規程も諳んじ、どんな書類も使いこなす、財務課のエルナ。勇者パーティ史上、もっとも地味で、もっとも頼もしい新メンバーだった。
「よろしく頼む、エルナさん」ライルは、手を差し出した。「今度の旅は、あんたが主役だ。俺たちは、護衛みたいなもんさ」
「主役は、困ります」エルナは、その手を取りながら、いつもの調子で言った。「わたしは、書類を作るだけです。――ですが、書類なら、誰にも負けません。よろしく、お願いいたします」
出張命令書に、とん、と判が押された。その乾いた音が、再発行の旅の、出発の合図だった。窓の外には、英雄の凱旋を祝う旗が、まだ街のあちこちに残っている。だが勇者一行は、その喝采に背を向けて、もう一度、東の果てを目指すのだ。今度は、剣ではなく、一冊の規程集と、白紙の領収書の束を携えて。




