第117話 船の上の寝床は、宿泊費か、運賃か。出航前夜、規程の分類でまた揉める
出航の前夜。港町ルンデの波止場には、三度目の旅の顔ぶれがそろっていた。ライルとエルナ。テオ、クロウ、セリカ、ミラ。ザイデル、メルツ、ヴァロ。留学を延ばしたカリナ。そして、今回は新しい顔もまじっていた。
「――王国騎士団より護衛を拝命しました、リナです!」
若い女性騎士が、きびきびと敬礼した。以前、国境の魔物の群れを討ち、その精算を三日で済ませた、あの騎士である。
「海の上の護衛は初めてですが、全力を尽くします!」
その隣で、テオが少し照れくさそうに頭をかいた。
「よろしく頼む。……俺も船の上で剣を振るのは初めてだ」
「海の魔物はね、陸の図鑑にほとんど載ってないのよ! 楽しみで、ゆうべは一睡もできなかったわ!」
大きな網と瓶を背負ってやってきたのは、ハンナだった。その後ろで、ボルクが几帳面に荷の目録を数えている。
「眠れなかったのは君だけだ。わたしは心配で眠れなかった」
――海の魔物の調べ役として、二人はそろって名乗りを上げたのだ。少し離れたところでは、魔王とガランが油布で包んだ装置の木箱を慎重に運びこんでいた。
一行が乗るのは、王国が借り上げた三本柱の商船、『海燕号』である。船長は四十がらみの日に焼けた女で、名をベルタといった。
「わしの弟子だ」
見送りに来ていた老船長ヨハンが胸を張った。
「十五でわしの船に乗りこんできた跳ねっかえりが、今じゃこの港でいちばん腕のいい船長よ。海のことはこいつに任せておけ」
ベルタは照れくさそうに、師匠の背中をどやしつけた。
問題は乗船の手続きで起きた。『海燕号』の事務長トマが、運賃の領収書をエルナに手渡した。几帳面な字でこうある。『運賃 十五名分 金貨六十枚。――ただし、ヴェスパーまでの二十日分の寝床と食事を含む』。エルナは礼を言って受け取り、それをメルツに回した。メルツは一行目を読み、二行目を読み、そして――眼鏡の奥の目がすっと細くなった。
「……『寝床と食事を含む』」
メルツは低くつぶやいた。
「エルナ殿。これはいけません。王国の旅費の規程では、旅の費用は三つに分けます。交通費。宿泊費。そして日当。この領収書は、その三つが一枚にまざっております」
「まざっていると、何が困る」
ライルが首をかしげた。
「全部払うお金だろう」
「困ります」
答えたのはザイデルだった。
「まず、宿泊費には上限がある。一泊、金貨一枚。寝床の値段がわからなければ、上限を超えたかどうかを検められん。次に日当だ。日当には、もともと食事の分が含まれている。運賃にも食事が含まれるなら――同じ食事に二度金を払うことになる。二重払いだ」
「それだけではございません」
メルツが分厚い綴りを開いた。この一年、彼がこつこつと調べてきた海洋連合の税の一覧である。
「ヴェスパーには、『港内宿泊税』という税があります。港に泊めた船で夜を明かす者は、一泊ごとに税を払う。……つまり、船の寝床を宿泊とするか、運賃とするかで、向こうの税まで変わるのです」
「あ」
エルナが小さく声を上げた。
「協議のあいだ、宿代を浮かせるため、港に泊めたこの船で寝起きするつもりでした」
「でしょうな」
メルツはうなずいた。
「そのつもりなら、なおさら分けねばなりません」
「うちの船じゃ、寝床と飯は運賃のうちだよ」
ベルタが腕を組んだ。
「二十年、船に乗ってるが、分けろと言われたのは初めてだね」
「帝国にも、船の寝床の定めはございません」
カリナが申し訳なさそうに言った。
「帝国の役人は、ほとんど海を渡りませんので」
――王国にも帝国にも前例がない。それは、この三年余りで何度も聞いた言葉だった。
そこへ、ハンナとボルクが口をはさんだ。
「そもそも船って何なのかしら。動くんだから、乗り物よね」
「いや。人が寝起きする以上、建物に準ずる」
「乗り物よ」
「建物だ」
――始まった。ライルは天を仰いだ。
「……あんたら、帝都で帝国の局長たちに、『その喧嘩、三年前にやりました』って言ってなかったか」
二人はぴたりと口を閉じ、気まずそうに顔を見合わせた。
「――目的に戻りましょう」
エルナが静かに言った。一里の長さでもめた、あの日。手で書くか、機械で書くかで四十八通やりあった、あの静かな戦争。そのたびに道を開いたのは、決まりの形ではなく、決まりの目的に立ち返ることだった。
「宿泊費に上限があるのは、なぜでしたか」
「安い宿があるのに、わざわざ高い宿に泊まらせないためだ」
ザイデルが答えた。
「五年前、黒霧の宿の一件で例外を作った。『安い宿が一軒もない場所では、実費を認める』とな」
「そのとおりです」
エルナはうなずいた。
「では――海の上ではどうでしょう。船が海のまんなかを進んでいる夜。ほかの寝床はありますか」
「ねえよ」
クロウが即座に言った。
「海に飛びこんで寝るわけにもいかねえ」
「そうです。選べないのです」
エルナは続けた。
「選べないなら、高い寝床を選ぶおそれもない。上限で検める必要もない。……海の上の寝床は、船に乗ることと切り離せない。つまり、運賃の一部です」
「ですが」
カリナがすかさず言った。
「港に着いたら話は別です。陸には宿がある。船で寝るか、宿に泊まるか選べる。……選べるなら、それは宿泊です」
その瞬間、メルツの目が輝いた。
「――錨です!」
皆がメルツを見た。
「錨が上がって船が進んでいるあいだの寝床は運賃。港で錨を下ろした夜の寝床は宿泊費! 錨の上げ下ろしで分ければよいのです!」
波止場が一瞬静まり、それから笑いが起きた。
「錨で経費の区分が変わるのかよ!」
クロウが腹を抱える。だが、メルツは真顔だった。
「笑いごとではございません。理屈は通っております」
――そこへ、テオが手を挙げた。
「あの……嵐で港に入れなくて、沖で錨を下ろしてやり過ごしたら、どうなりますか」
「……む」
メルツが詰まった。
「沖の錨は、陸に上がれません。選べない。ならば運賃……ですが、錨は下りている」
「では、港の内か外かを誰が決める」
ザイデルが畳みかける。
「港の内と外は、灯台で決まってるよ」
ベルタがこともなげに言った。
「灯台の光の内側が港。外は海だ。船乗りなら誰でも知ってる」
「――それです」
エルナがペンを取った。
「『灯台の内側で錨を下ろした夜だけを宿泊とする』。灯台の外にいるあいだは、どこで錨を下ろしても運賃。……これなら嵐の夜も迷いません」
ヴァロが、もう紙に欄を引きはじめていた。『錨の記録』。日付。錨を下ろした場所。灯台の内か外か。そして、その夜の寝床の区分。
「食事はどうする」
ザイデルが最後の問いを出した。
「船で食事が出る日は、日当から食事の分を引く」
メルツがすらすらと答えた。
「二重払いはなくなります。ただし、港で陸に上がって食べた日は引かない」
「その日がどの日かは」
「それも錨の記録でわかります」
――一枚の紙で、三つの問題が片づいた。
「ただ、一つお願いがあります」
エルナはベルタに向き直った。
「錨をいつ、どこで下ろしたか。それを確かめられるのは、船の航海日誌だけです。……日誌をすぐに海に返さず、精算が済むまで残していただけませんか」
ベルタの顔がくもった。ルンデの船乗りの習わし。航海を終えたら、帳面は海に返す。彼女はちらりと師匠を見た。ヨハンはしばらく黙ってパイプをくゆらせていたが、やがてゆっくりとうなずいた。
「……海は待ってくれる。取り立てに来るのは、いつまでも帳面を離さない船だけだ。精算が済むまでなら、海も文句は言わんさ」
「そのときは」
エルナが言った。
「皆で一緒に海に返しに行きましょう」
ベルタは少し驚いた顔をして、それから、にやりと笑った。
「……役人と日誌を流すのは初めてだね」
「あの、もう一つよろしいですか」
事務長トマが、おずおずと手を挙げた。
「ご夫婦の船室は二人で一部屋ですが、宿泊の夜の領収書は、どうお分けすれば」
「一部屋を二人で割ります」
メルツが即答した。
「夫婦で割り勘かよ」
クロウがまた吹き出し、ライルは肩をすくめた。
「経費は経費だ」
エルナがほんの少し耳を赤くしたことに気づいたのは、セリカだけだった。
その夜、エルナは宿の机で一枚の紙を清書した。『海の旅費規程・第一条(案)。船の寝床は、灯台の外にいるあいだは運賃とし、灯台の内で錨を下ろした夜は宿泊とする。第二条(案)。船で食事が出た日は、日当から食事の分を引く』。――四天王の保険の契約の日、彼女は言った。いつか王国が海の規程を作るとき、その最初の一行になるように、と。その最初の一行は、出航の前夜、灯台の光を目印に生まれた。
同じころ。ライルは『海燕号』の甲板で、トビアスの点検票に初めての一行を書いていた。『出航前夜。刃、異常なし。潮の匂い、強し』。顔を上げると、灯台の光がゆっくりと海をなでていく。いつのまにか、隣にエルナが立っていた。
「灯台の内側で寝るのは、今夜が最後だな」
「はい。明日からは運賃です」
二人は顔を見合わせて笑った。世界で一番地味な冒険は、灯台の光を境目に、陸と海の規程を一本の線で分けた。明日の朝、その線を越える。




