第118話 出航。国境のない海の、最初の夜。魔物の群れと、遠い黒い帆
朝のルンデは霧の中にあった。波止場には、錨の酒場の船乗りたちがずらりと並んでいた。手に手に、あの結び目の縄を持って。十年分の記録を使節団に託した男たちだった。
「――持っていけ」
老船長ヨハンが、クロウに短い縄を一本放った。結び目はまだ一つもない。
「航海の数え縄だ。港に入るたび、一つ結べ。……腹が立った日は赤を編め」
クロウはその縄をしばらく見つめてから、腰の帯にしっかりと結びつけた。
「赤は編まずに済めばいいがな」
「済まんさ。海の向こうは、そういうところだ」
ヨハンは片目を細めて笑った。
「舫いを解けえ!」
船長ベルタの声が霧を裂いた。水夫たちが走り、帆が一枚、また一枚と風をはらんでいく。『海燕号』はゆっくりと波止場を離れた。岸でヨハンが縄を高く掲げている。その姿が霧にとけて見えなくなるまで、クロウは船尾に立ち続けていた。
やがて、灯台の白い塔が右手を過ぎていった。
「――今、灯台の外に出ました」
メルツが懐中の時計を確かめて、厳かに告げた。
「ここから寝床は運賃です」
ヴァロが『錨の記録』の最初の欄に几帳面に書きこむ。『第一日、朝。灯台、通過。錨、上がる』。水夫たちが何事かと振り返り、使節団の面々はこらえきれずに笑った。
陸が遠ざかっていく。エルナは船べりに手をかけ、小さくなっていく王国の岸を見つめていた。
「……陸には線がありました」
彼女はぽつりと言った。
「国境。関所。村と村の境。領地の杭。……海には何もないのですね」
「国境のない場所に来たのは初めてだな」
ライルも隣で水平線を見た。どこまでも続く青。そこには関所も杭も里程標もなかった。
「……国境がないのは結構ですが」
少し離れた船べりから、か細い声がした。カリナだった。顔はすでに紙のように白い。四天王の試供品の酔い止めを握りしめている。
「揺れもない場所がよかったです……」
「カリナさん、遠くを見て! 足元じゃなくて水平線を!」
テオが駆け寄る。彼女の私用の手帳のあの一行――『船酔いの克服』は、どうやら最初の半日で遠い目標になったらしかった。
昼のあいだ、船は静かに東へ進んだ。ハンナは舳先に陣取り、目を輝かせて海をのぞきこんでいる。
「見て! 海鳥が低く飛んでる。……魚の群れが浅いところに上がってきてるのよ」
「風向きが変わる兆しでもある」
ボルクが帳面に雲の形を写しとる。二人は喧嘩をしながらも、手だけは休めなかった。
船尾では、魔王が一人、海を見ていた。その隣にガランがそっと並ぶ。
「……この海のどこかに」
魔王は低く言った。
「わたしが沈めた船がある。黒い帳簿の三頁目。……今、この真下かもしれん」
ガランは何も言わなかった。ただ、主人の隣に黙って立ち続けた。風が二人の上着の裾をはためかせていた。
甲板のまんなかでは、テオとリナが剣の型を合わせていた。だが、うまくいかない。船がゆっくりと傾くたび、リナの足がすべる。三度目に尻もちをついたとき、舵のそばからベルタの笑い声が飛んできた。
「陸の足じゃ立てないよ、騎士さん! 膝を波に預けな! 踏んばるんじゃない、揺れに乗るんだ!」
リナは顔を赤くしながら膝をゆるめた。すると――ふしぎと体が船と一緒に揺れはじめた。
日が沈み、海は凪いだ。月が昇り、波の上に銀の道をつくる。最初の夜は静かに更けていく――はずだった。
「……来るわ」
舳先でハンナが声を落とした。月明かりの海面がところどころ泡立っている。その泡の下で何かが青白く光っていた。一つ、二つ。十。百。
「刃鰭よ。灯りに寄ってくる海の魔物。一匹なら、ただの大きな魚。でも、群れになると――帆まで切り裂くわ!」
次の瞬間、海がはじけた。銀色の影が次々と海面から跳び上がる。背に刃のような鰭を持った魚の魔物だった。甲板の灯りめがけて雨のように降ってくる。
「灯りを落とせ!」
ベルタが叫ぶ。だが、灯りを消せば、こちらも何も見えない。
「灯りに寄るなら、灯りでそらせばいい!」
ボルクが叫んだ。セリカがすぐにうなずき、杖を掲げる。あのゆっくりとした長い詠唱。杖の先から小さな炎の玉がいくつも生まれ、ふわりと船から離れて海の上へ漂っていく。刃鰭の群れの半分がその灯りを追って、向きを変えた。
だが、残りの半分はすでに甲板の上だった。
「テオ!」
「わかってる!」
テオとリナが同時に剣を抜いた。跳ねまわる刃鰭が水夫の足を狙う。リナが踏みこむ――が、そのとき船が大きく傾いた。リナの足がすべる。体が宙に浮いた、その腕をテオがつかんだ。
「膝を波に!」
テオの声に、リナははっと昼間のことを思い出した。踏んばらない。揺れに乗る。膝をゆるめて甲板に降りた、その勢いのまま彼女の剣が弧を描いた。刃鰭が二匹まとめて海へとはじき返された。
二人は背中を合わせた。テオが右を、リナが左を。船が傾けば二人も傾き、戻れば戻る。言葉は要らなかった。舳先ではクロウが櫂を振りまわして、跳びこんでくる刃鰭をたたき落としている。
「盗賊の得物にしちゃ、でかすぎるがな!」
ミラは帆柱の陰で、鰭に腕を切られた水夫の手当てをしている。淡い祈りの光が傷口をふさいでいく。
ライルは甲板のまんなかに立っていた。足元には、油布に包まれた装置の木箱と五万枚の写しの箱。
「――記録の箱には指一本触れさせるな!」
聖剣が月の光をはじいて閃く。跳びかかってきた刃鰭がまっぷたつになって海へ落ちた。かつて魔王を斬った剣が、今は帳簿を守っていた。
そのとき、ひときわ大きな影が海から跳ね上がった。人の背丈ほどもある刃鰭――群れの頭だ。その巨大な鰭がまっすぐに本帆の綱へと向かっていく。
「帆が!」
ベルタの叫び。リナが走った。揺れに乗って甲板をすべるように駆け、跳んだ。彼女の剣が巨大な鰭を甲板に縫いとめる。
「テオ様!」
「おう!」
テオの一撃が、その頭を打ち抜いた。群れの頭を失った刃鰭たちは、セリカの灯りを追って、いっせいに海の彼方へと散っていった。
静けさが戻った。甲板は水と鱗だらけだった。ザイデルが真っ先に帳面を開いた。
「損耗の記録を。前帆、裂け目三尺。櫂一本、折損。負傷、水夫二名、手当て済み」
メルツがその横からのぞきこむ。
「保険の対象です。……刃鰭は黒帆ではありませんので」
誰も笑わなかったが、その場違いな冷静さに、皆、少しだけ肩の力が抜けた。
ライルは船べりで聖剣を真水で洗い、乾いた布で拭き、油を薄くひいた。そして、点検票に書きこんだ。『第一日。刃、海水と魚の脂。真水で洗い、油をひく。……錆なし』。のぞきこんだエルナが小さく微笑んだ。
「トビアス様が喜びますね」
甲板の隅では、テオとリナが並んで座りこんでいた。
「……テオ様が受け止めてくださらなければ、わたし、海に落ちていました」
「俺も昔は一人で戦ってた」
テオは月を見上げた。
「でも、背中を預けられると、こんなに楽なんだな。……次も頼む」
「はい。次は、わたしが受け止めます」
「――帆だ!」
見張りの水夫が叫んだのは、そのときだった。
「右舷の遠く! 灯りのない船!」
皆がいっせいに右を見た。月明かりの海のずっと向こう。一隻の船が音もなくすべっていた。灯りは一つもない。そして、その帆は――夜の海よりもなお黒かった。
ベルタの顔から血の気が引いた。
「……黒帆」
誰もが、あの保険の契約書の最後の一行を思い出していた。襲われた船は記録ごと消える。クロウだけが目を細めて、その船の走り方をじっと追っていた。
「灯りを消して風下を走ってる。月に帆をかぶせない角度で……」
彼は言葉を切った。
「……昔、どこかで見た走り方だ」
黒い帆はやがて月の届かない闇へととけこみ、消えた。
その夜、エルナは船室で手帳に短く記した。『第一日。国境なし。魔物あり。黒き帆、一』。そして、少し迷ってから、もう一行書き足した。『――クロウ様、何かを知っている』。船は闇の中を東へ進む。世界で一番地味な冒険は、国境のない海の最初の夜、まだ名前しか知らない影と遠くすれちがったのだった。




