第116話 聖剣No.0001、また旅へ。トビアス「海水は、備品の大敵でございます」
出航まで、あと十日。ライルは王城の宝物庫の重い扉の前に立っていた。帝国から帰ったとき、ここに返したあの一振りを、もう一度借りるためである。
「――お待ちしておりました、ライル様」
奥から現れた資産管理課長、トビアスの顔はいつになくこわばっていた。
「海へ行かれると伺いました」
「ああ。ヴェスパーまで船で二十日だ。海には魔物も出る。だから、聖剣を」
「存じております。継続使用の申請書もすでに整えてございます。ですが――」
トビアスは深く息を吸った。そして重々しく告げた。
「海水は備品の大敵でございます」
トビアスはライルを奥の作業台へと案内した。そこには、見たことのない品々がずらりと並べられていた。油をしみこませた厚い布の鞘覆い。小さな壺に入った錆止めの油。乾いた布が二十枚。そして一枚の紙。『聖剣No.0001・海上携行、日々点検票』。
「潮風は鉄をむしばみます」
トビアスは一つずつ手に取りながら説明した。
「波をかぶれば、なおいけません。毎晩、鞘から抜き、真水で塩を落とし、乾いた布で拭き、油を薄くひく。そして、その日の様子をこの点検票に記していただきたいのです。刃の曇り、柄のゆるみ、鞘の湿り気」
「……毎日書くのか」
「二十日分、欄をご用意いたしました」
トビアスは真顔でうなずいた。
「No.0001は世界に一振りでございますので」
ライルはその点検票を見て、思わず苦笑した。五年半前、彼は紙を何より嫌っていた。剣の手入れは腕で覚えるものだと思っていた。だが、今はわかる。毎日書けば、小さな変化に気づける。曇りが一日で出たのか、三日で出たのか。それがわかれば、手入れの仕方を変えられる。紙は剣を守るためにも使えるのだ。
「それと、もう一つ」
トビアスは作業台の下から一冊の帳面を取り出した。表紙には、こうあった。『王国備品No.0001・貸出の履歴』。
「この剣が王国の宝物庫を出た、すべての記録でございます。ご出立の前に、ぜひご覧いただきたく」
ライルは帳面を開いた。一行目は六年近く前。『勇者ライルに貸与。魔王討伐のため』。その下に、少し震えた字で、『返却。……と、思いきや、継続使用申請出される』。二行目。『勇者ライルに再貸与。帝国との協議の旅のため』。そして、そのすぐ横に一枚の紙の写しが丁寧に貼りつけられていた。帝国宮殿の宮内財務局が出した、あの預かり札である。『王国備品No.0001、聖剣一振り、確かにお預かり』。
「……これ、取っておいたのか」
「もちろんでございます」
トビアスは少し誇らしげに言った。
「帝国の宮殿で、No.0001の番号がそのまま預かり札になった。これほど名誉な記録はございません。帝国から写しを取り寄せました」
ライルはその頁を、しばらく黙って見ていた。魔王城。国境の山道。皇帝の玉座の前。この剣は自分と一緒に、そのすべてをくぐってきた。そして、その一つひとつが、こうして一冊の帳面に残っている。
「――三行目を書くのか」
ライルがつぶやくと、トビアスはうなずいた。そして、その場で羽根ペンを取り、新しい一行を記した。『勇者ライルに三度目の貸与。海洋連合との協議の旅のため』。書き終えて、彼はペンを置き、ライルをまっすぐに見た。
「ライル様。No.0001をお貸しするのは、これで三度目でございます。……どうか、四行目を書かせてください。『返却』と」
その言葉の意味がわからないほど、ライルは鈍くはなかった。剣が返るということは、持ち主が無事に帰るということだ。トビアスは剣の心配をしているようで、本当はずっと人の心配をしていたのだ。
「……ああ。必ず返しに来る」
ライルは静かに答えた。
「錆び一つつけずにな。点検票も二十日分、ちゃんと埋めてくる」
「……一つ、聞いてもいいか」
ライルは帳面を閉じながら尋ねた。
「なんでそこまで、この剣にこだわる。宝物庫には、もっと値の張る宝も山ほどあるだろう」
トビアスは少し考えてから、静かに答えた。
「値の張る宝は、棚に置いておくだけで価値が保たれます。ですが、No.0001は違います。この剣は、使われるたびに物語が増えていく。……台帳に番号をつけるとき、わたしはいつも思うのです。この番号の向こうで、誰かが命を懸けている、と。そういう備品を預かれるのは、資産管理の仕事のいちばんの誇りでございます」
その言葉に、ライルは何も言い返せなかった。五年半前、柄にシールを貼られて膝から崩れた、あの日の自分に聞かせてやりたいと思った。
そのとき、宝物庫の扉が開いて、セリカが顔を出した。手には、あの祖母の形見の杖。
「トビアスさん、いる? この杖も海に持っていくんだけど、何か気をつけることって――」
「ございます!」
トビアスの目が輝いた。彼は作業台の端から、もう一つ包みを取り出した。中には、杖の長さにぴったりの蝋をひいた布袋。
「『評価額・算定不能』の品は、No.0001と同じだけ大切に扱う。それが当課の決まりでございます。木は潮で反ります。湿れば割れます。夜は必ずこの袋に」
セリカは袋を受け取り、目を丸くした。
「……わたしが来るって、わかってたの?」
「五年前、セリカ様がこの杖を抱きしめておられた日から」
トビアスは少し照れたように言った。
「この杖が旅に出るときは、必ず備えを、と決めておりました」
セリカはしばらく言葉が出なかった。それから、袋ごと杖をぎゅっと抱きしめた。
「……ありがとう。おばあちゃんも、きっと喜んでる」
最後に、トビアスは聖剣をガラスの棚から取り出した。柄には、あの小さなシール――『王国備品No.0001』。五年半前に貼られ、のちに透明な膜で覆われた、あのシールである。だが、よく見ると、その膜の上にもう一層、薄い蝋が重ねられていた。
「……海水対策、追加いたしました」
トビアスは胸を張った。
「シールがはがれては、台帳と合いませんので」
ライルは思わず吹き出した。そして、その剣を受け取った。鞘覆いの油の匂い。蝋の手ざわり。どれも陸の旅にはなかったものだ。
「――行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
トビアスは深く頭を下げた。宝物庫を出るライルの背中で、帳面の三行目のインクがまだ乾かずに光っていた。世界で一番地味な冒険は、一振りの剣と一冊の履歴と二十日分の点検票を携えて、いよいよ海へと向かおうとしていた。




