第115話 元・炎帝バルゴ、今度は海上保険を売りに来た。「沈む前に、ぜひ」
使節団が海を渡る――その報せは、王都の思わぬところにも届いていた。
ある昼下がり。地下二階の扉が勢いよく開いた。
「やあやあ、勇者殿! お久しぶりですな!」
燃えるような赤い髪。いかつい顔に満面の営業用の笑み。きっちりと仕立てた上着の胸には、新しい名札が光っていた。『安心海上保険・営業部長 バルゴ』。――元・魔王軍、四天王の一人、炎帝バルゴである。
「……海上保険?」
ライルは思わず聞き返した。
「お前、生命保険じゃなかったか」
「条約のおかげで、海の商いが増えましてな!」
バルゴは胸を張った。
「生命保険で鍛えた腕を海で試そうと、新しく部署を立ち上げたのです。――しかも今回は、精鋭をそろえてまいりました」
彼の後ろから、三つの人影が現れた。
「書類と契約は、わたし」
青白い肌の美しい女――氷姫リネアが、分厚い契約書の束を抱えていた。今は町の戸籍係の窓口を続けながら、副業で契約書を整えているらしい。
「商品の設計は私だ」
雷神ドルクが腕を組んだ。
「リスクをヘッジし、ステークホルダーのエンゲージメントを最大化する」
「……相変わらず何を言ってるかわからん」とライル。
そして最後に、幻妖のセズが色とりどりのちらしを扇のように広げた。
「さあさあ、お立ち会い! 一度きりの航海! 後悔しない保険を!」
――四天王、勢ぞろいの営業である。
「ご説明いたしましょう」
バルゴは卓にちらしを広げた。『使節団・海上総合保険』。補償の範囲は――嵐による沈没。座礁。魔物の襲撃。海賊の略奪。積荷の水濡れ。
「ヴェスパーまで船で二十日。二十日のあいだ、何があるかわかりません。――沈む前に、ぜひ」
「縁起でもないこと言うな!」
クロウの突っ込みに、地下二階がどっと沸いた。
だが、笑いがおさまると、エルナが真顔でちらしを手に取った。
「……バルゴ様。正直に申し上げます。使節団の命を守る備えは必要です。ですが――この保険料を王国の経費として払えるかどうか。それがわかりません」
「ほう?」
「王国の旅費の規程には、『保険料』という項目がないのです」
メルツが横からうなずいた。
「王国の役人は、これまでほとんど海を渡ったことがございません。陸の旅に保険はない。……前例がないのです」
「前例ならある」
ザイデルが静かに口を挟んだ。
「五年前の街道での一件だ。魔物に襲われ、勇者殿の外套が裂けた。あのとき、エルナ殿は『被服損耗届』で、それを経費にした。任務の最中の損失は王国が持つ。……保険とは、つまりその損失を先に少しずつ払っておく仕組みではないのか」
「まさに!」
バルゴが手を打った。
「保険とはですな、みんなで少しずつ出し合って、誰かが沈んだとき、その家族を守る仕組みなのです。一人で嵐に遭えば、一人ですべてを失う。ですが、百人で少しずつ出し合っておけば、沈んだ一人の家族は路頭に迷わずに済む」
――その言葉に、エルナの手が止まった。
「みんなで少しずつ出し合って、誰かを守る……」
彼女は、ふとあの条約の前文を思い出していた。『決まりは、人を守るための傘である』。
「……傘ですね」
エルナはつぶやいた。
「保険も一つの傘なのですね。一人では差せない大きな傘を、みんなで持ち合う」
「炎帝が傘を売りに来たのか」
ライルが笑った。
「世の中、わからんもんだ」
バルゴは照れくさそうに赤い髪をかいた。
「かつて、わたしは炎で人々の家を焼きました。……今は、焼けた家の建て直しにお金が届く仕組みを売っております。罪滅ぼし、というにはささやかすぎますが」
「では、契約の中身を検めさせていただこう」
ザイデルがリネアの契約書を手に取った。――そして、その精緻さに目を見張った。どの条文にも隙がない。補償の条件、払われない場合、手続きの期限。すべてが窓口の職員らしいやさしい言葉で、しかし一分のあいまいさもなく書かれている。
「……見事だ。帝国の主計局長に見せたい」
「窓口で毎日文句を言われていると、こうなるの」
リネアがつまらなそうに言った。
「読み間違えようのない書類しか書けなくなったわ」
だが、最後の頁でザイデルの指が止まった。『――なお、黒き帆を掲げる海賊による損害は、本保険の対象外とする』。
「……『黒き帆』とは何だ」
部屋の空気が変わった。バルゴの笑みがすっと消えた。ドルクもセズも黙りこむ。やがて、バルゴが低い声で言った。
「――ここ数年、東の海に出る海賊団です。正体はわかりません。ただ、黒い帆を掲げている。……そして、あれに襲われた船は、どういうわけか記録ごと消えるのです。積荷も帳面も、船の名前さえも。保険屋が払おうにも、払う根拠が残らない」
「記録ごと消える……」
カリナが青ざめた。足りない記録。海に流された帳面。魔王軍に沈められた船。――そのどれとも違う、もう一つの消え方があるというのだ。エルナとザイデルは顔を見合わせた。何も言わなかったが、二人とも同じことを考えていた。この名前は、いつか五万枚のどこかでまた出てくる。
「……保険の件は決めましょう」
エルナが気を取り直して言った。
「保険料は、『任務の安全を確保するために要する費用』として経費に認めます。五年前の被服損耗届と同じ考え方で。そして、この判断を記録に残します。いつか王国が海の規程を作るとき、その最初の一行になるように」
メルツが満足げにうなずき、ヴァロがさっそく新しい様式を引きはじめた。『海上保険料申請票』。
契約の署名が済むと、カリナがおずおずと手を挙げた。
「……あの。一つ伺っても。この保険、船酔いは補償の対象に」
「船酔いは対象外です」
セズがにっこりと答えた。
「ですが、ご契約の皆様には、酔い止めの薬草の試供品をおつけしております」
「……いただきます」
カリナは真剣な顔で、その小袋を受け取った。私用の手帳に何かを書きつけるのを、テオだけが見ていた。
ドルクが最後に、契約書の控えをライルに手渡した。
「――勇者殿。コンサルとして一つだけ助言を。この保険の本当の値打ちは、払われる金ではない。『もしものときも、誰かが後ろにいる』と思えることだ。……船乗りは、それで嵐の中でも舵を離さずにいられる」
めずらしく横文字のない言葉だった。ライルは、かつて雷で自分をしびれさせた男の顔をまじまじと見た。
「……あんた、たまにまともなことを言うな」
「たまにだ」
ドルクは、にやりと笑った。
帰り際、バルゴは深々と頭を下げた。
「――沈まないことを祈っております。保険屋は、払わずに済むのがいちばんの幸せでございますから」
四天王が去っていったあとの地下二階で、ライルは契約書の最後の一行をもう一度見た。黒き帆。世界で一番地味な冒険は、海の向こうにまだ名前しか知らない影が待っていることを、この日初めて知ったのだった。




