第114話 魔王とガラン、名乗りを上げる。「五万枚なら、機械の出番です」
ひと月が過ぎた。地下二階は、紙と縄に埋もれていた。
王国じゅうの港から、記録が届きはじめたのだ。商人組合の入出港の控え。港の帳場の古い綴り。船主たちの商いの帳簿。ルンデの縄の山は、あとからあとから増えていく。帝国からも、主計局長の指揮で木箱が次々と送られてきた。財務課の廊下には、受付待ちの箱が天井まで積み上がっていた。
「――本日の受付、二百十二件。うち、処理済み三十一件」
夕刻、ヴァロが青い顔で報告した。若い職員たちは机に突っ伏している。フェルゼンが無言で帳簿を閉じた。
「……計算をしてくれ、ヴァロ」
「は、はい」
ヴァロは震える手でそろばんをはじいた。
「五万枚をこの速さで処理しますと――およそ八年と四か月かかります」
部屋が、しんとなった。
「八年……」
ライルがうめいた。
「ヴェスパーの協議の日取りは半年後だぞ」
「手を増やしましょう。帝国からも」
カリナが言いかけたが、エルナが静かに首を振った。
「手を増やしても、慣れた者でなければ間違いが増えます。間違えた記録で協議の卓につけば、連合の監査官に一枚で崩されます」
そのとき、階段の上から軽やかな足音がした。
「――お困りのようですな」
扉の向こうに、仕立てのいい服の男が立っていた。穏やかな営業用の笑み。その後ろに、分厚い眼鏡の小柄な魔物が大きな木箱を抱えている。マオウ・ソフトの創業者と、その経理担当。――元・魔王とガランだった。
「五万枚と聞きました」
魔王は紙の山を見渡して、にっこりと笑った。
「五万枚なら、機械の出番です」
ガランが木箱を開けた。中から現れたのは、あの装置――『二国間対応、第二版』の、さらに改良型だった。
「物語欄つき。王国式、帝国式、両方を読めます。それに今回は、海洋連合の書式も少しだけ覚えさせてまいりました」
ガランは眼鏡を押し上げた。
「一日千枚は読めます。間違いは千枚に一枚ほど。……人の手で検める前提ですが」
さっそく試しに、港の入出港の控えを百枚読ませてみた。装置はかたかたと鳴り、四半刻ですべてを整理して吐き出した。船の名前ごと、港ごと、年ごとに、きれいに並べ直された一覧表。若い職員たちから、どよめきが上がった。
「……一日三十一件のわたしたちのひと月分が」
ヴァロが呆然とつぶやいた。
「では、こちらも」
調子に乗ったテオが、ルンデの縄を一本、装置の口に差しこんだ。――装置はしばらくうなり、がたがたと震え、それから紙を一枚だけ、ぺっと吐き出した。
『この記録は紙ではありません。……読めませんが、大切なものである気がします』
「「「……」」」
妙に詩的な返答に、地下二階が静まり返った。
「こ、この子、紙しか読めないのです」
ガランが慌てて縄を引き抜いた。
「――それでいいのです」
エルナが静かに言った。
「分けましょう。紙は機械が読む。縄と船乗りの証言は人が読む。……機械は速く数えられる。ですが、赤い結び目が『腹が立った日のしるし』だと知っているのは、ヨハン様とわたしたちだけです」
その言葉に、皆がうなずいた。紙の山と縄の山。二つの山を、機械と人が手分けして崩していく。それが、この日決まった分担だった。
ヴァロがそろばんをはじき直した。
「機械が紙を一日千枚。人が縄と証言を一日二百件。……およそ三か月で終わります」
「八年が三か月か」
ライルが魔王の肩を叩いた。
「助かった。……で、いくらだ。使用料は」
「無料で結構です」
魔王は首を振った。
「いえ、そういうわけには」
メルツが、すかさず割って入った。
「無償の協力であっても、記録は要ります。『無償協力申出書』を一枚お願いします。寄付の扱いとして、税の区分が」
「……無料で申し出ても、書類が要るのですか」
「要ります」
魔王は苦笑してペンを取った。
「ただし」
ザイデルが、装置の吐き出した一覧表を一枚手に取った。
「千枚に一枚の間違い。五万枚なら五十枚だ。その五十枚がどれかは、機械にはわからん。……最後は人の目ですべて検める。それが条件だ」
「もちろんでございます」
ガランが深くうなずいた。
「この子は速く数えます。ですが、数え間違いに気づくのは、いつも人のほうでした。わたしが魔王軍で学んだことです」
その言葉に、ザイデルの口元がわずかにゆるんだ。
申出書を書き終えると、魔王はふと笑みを消した。そして、ガランに目で合図した。ガランは少しためらってから、木箱の底からもう一冊、古びた黒い帳簿を取り出した。表紙には、色あせた文字でこうあった。『魔王軍・海上作戦記録』。
「――こちらも、お役に立つかと」
魔王の声は静かだった。
「十年前から六年前まで。魔王軍は東の海で商船を襲っておりました。どの船を、いつ、どこで襲い、沈めたか。……ガランがすべて記録しておりました。几帳面な経理ですので」
部屋の空気が凍りついた。ガランがうつむいたまま、帳簿を卓に置いた。
「……あのころのわたしは、ただ数を合わせておりました。何隻沈めたか。何を奪ったか。それが、わたしの仕事でした」
小さな魔物の手が震えていた。
「解散のとき、捨てることもできました。ですが、捨てられなかった。……記録を捨てるのは経理の名折れだと思っておりましたが、本当は――忘れてはいけないと思ったのです」
「足りない記録のうち、帳面ごと海に沈んだ船があるはずです」
魔王が続けた。
「その船の記録がないのは、船乗りの習わしのせいではない。……わたしのせいです。ですから、せめてその最後の記録をお渡ししたい。どの船が、いつ、どこで終わったのか。それがあれば、取りすぎたお金を遺された家族に返せるかもしれない」
長い沈黙があった。やがて、エルナがその黒い帳簿にそっと手を置いた。
「――受け取ります。これは証明になります。沈んだ船の最後の記録として。そして、遺された方々が取りすぎたお金を取り戻すための証拠として」
魔王は深く頭を下げた。
「……償いの一枚目です。二百年分のほんの一枚目にすぎませんが」
「一つ、頼みがある」
ライルが言った。魔王が顔を上げる。
「海を渡るとき、一緒に来てくれ。装置の面倒を見る者が要る。それに――」
ライルは黒い帳簿を見た。
「あんたが沈めた海だ。あんたの目で見ておいたほうがいい」
魔王は、しばらく言葉が出なかった。それから静かにうなずいた。
「……喜んで。いえ――覚悟をしてまいります」
その夜から、地下二階には新しい音が加わった。羽根ペンの音。そろばんの音。そして、装置のかたかたという規則正しい音。紙の山は機械が崩し、縄の山は人がほどく。黒い帳簿は、エルナとザイデルが一頁ずつ検めていく。窓の高いところから、月がのぞいている。世界で一番地味な冒険は、機械と人と、かつての敵の罪の記録とを一つの机の上に並べて、海への支度を整えていったのだった。




