第113話 カリナ、留学延長を申請する。理由の欄に「船酔いの克服」と書きかけて、消す
ライルたちが港町ルンデへ発ったその夜。地下二階には、灯りが一つだけ残っていた。カリナの机である。
机の上には、一枚の申請書があった。帝国の様式。表に事実を、裏にその根拠と証人を書く。国境の関所で、王国の使節団をさんざん手こずらせた、あの両面の書式だ。表の欄は、すでに埋まっていた。申請者、カリナ・ヴェルト。派遣先、王国財務課。延長の期間、一年。――残るはただ一つ。『延長を求める理由』の欄だけだった。
カリナは、いきなり本書きはしない。まず、下書きの紙に書いてみる。一行目。『海洋連合との協議の実務を担うため』。……書いてから、彼女はじっとその一行を見つめた。間違ってはいない。だが、帝都の筆頭官吏なら、こう言うだろう。「協議の実務なら、帝国から別の者を出せばよい。なぜ、お前でなければならんのだ」。これは、誰かが行く理由だ。わたくしが行く理由ではない。彼女はその一行に線を引いた。
二行目。『海上取引の記録の実地調査のため』。――これも同じだった。調査なら、帝国の港を調べれば済む。王国の財務課に残る理由にはならない。線を引く。三行目。四行目。どれももっともらしく、どれもどこか他人の言葉のようだった。
五行目を書こうとして、ペンがふと勝手に動いた。『船酔いの克服』。――カリナは自分の書いた字を見て、思わず息をのんだ。そして、小さく笑ってしまった。本当のことだったのだ。彼女は一度も船に乗ったことがない。国境の崖道で足がすくんだ、あの日のことを思えば、海の上でどうなるか想像もつかない。……だが、これを帝国財務省の正式な書類に書くわけにはいかない。彼女はその一行にも、きっちりと線を引いた。
「――それも本当の理由か」
背後から、しわがれた声がした。振り向くと、部屋の片隅の古い椅子にフェルゼンが座っていた。灯りの届かない暗がりで、帳簿を読んでいたらしい。
「か、課長。まだいらしたのですか」
「年寄りは夜が長くてな」
老人は立ち上がり、ゆっくりとカリナの机へ歩いてきた。そして、線だらけの下書きをのぞきこんだ。
「……五行書いて、五行消したか」
「お恥ずかしい限りです」
カリナはうつむいた。
「本当の理由はございます。ですが、それは書類に書けるようなものではないのです。理由の欄には、帝国の利益にかなう理屈を書かねばなりません」
フェルゼンは、しばらく黙っていた。それから近くの椅子を引き寄せて、腰を下ろした。
「――五年半前の話をしよう。あの勇者が、期限切れの申請を持って、わしの机の前に立った。わしは聞いた。『なぜ期限内に出せなかった』とな。……あの男は、何と答えたと思う」
「存じません」
「『忘れていた』だ」
老人は、かすかに笑った。
「嘘をつけば通ったかもしれん場面でな。物理的に無理だった、と言えばよかった。だが、あの男はそう言わなかった」
「わしはそのとき、判を押さなかった。正直さは理由にならんと言ってな。だが――あの一言で、わしはあの男を信じる気になった。この男の書く書類なら、嘘はない、とな」
フェルゼンは、下書きの紙を指で叩いた。
「理由の欄は、言い訳を書く欄ではない。判を押す者が、『この者に任せてよい』と思えるだけの本当を書く欄だ。……帝国の利益にかなう理屈など、帝都の役人がいくらでもこしらえる。お前さんにしか書けんことを書け」
「わたくしにしか書けないこと……」
カリナは、海の向こうから届いたあの書状を思い出していた。『記録の不備を理由に取りすぎた』。……その一行を初めて読んだとき、胸の奥が冷たくなった。なぜなら、それは――。
「……同じなのです」
カリナはぽつりと言った。
「わたくしの村で起きたことと。記録を持たない村人たちが、記録の不備を突かれて食い物にされた。あの書状に書かれていたのは、同じことです。今度は海の上で。……王国と帝国の商船の船乗りたちが、きっとわたくしの村の人たちと同じ顔でお金を取られていた。わたくしは、それを帝都の机から書状一枚で片づけたくないのです。自分の目で見て、自分の手で取り返したい」
「なら、それを書け」
フェルゼンは、こともなげに言った。
「ですが、それはわたくしの私情で」
「私情のない役人に、何ができる」
老人の声は静かだったが、揺るがなかった。
「四十五年、わしは私情を捨てたつもりで規程を守ってきた。だが結局、わしを動かしたのは、あの勇者の『忘れていた』という私情だった。……判を押す者も人間だ。理屈だけの紙より、本当のことが一行まじった紙のほうが、ずっと押しやすい」
カリナは深く息を吸った。そして、下書きではなく本書きの申請書にペンを下ろした。『――一、海洋連合が記録の不備を理由に取りすぎた金を正しく返させるため、その実務を現場で担う。二、記録を持てぬ者が、そのために損をする仕組みを海の上に残さないため。……わたくしは、かつてそれで故郷を失いかけました』。
書き終えて、彼女は申請書を裏に返した。根拠の欄に、『旅人の経費条約、第八十八条』。そして、証人の欄で手が止まった。
「……課長。証人の欄に、お名前をいただいてもよろしいでしょうか」
フェルゼンは黙ってペンを受け取った。そして、几帳面な字でこう記した。『王国財務課長、フェルゼン。この者の一年を、そばで見てきた者として』。カリナの目がにじんだ。
翌朝、申請書は早馬で帝都へ発った。それから十日ほどして、ルンデからライルたちが帰ってきた。荷車に山のような縄を積んで。
「……縄、ですか?」
目を丸くするカリナに、ヴァロが結び目の記録の話をした。赤い糸の結び目。三十七回の取られすぎ。カリナは、その赤い結び目を一つずつ指でたどり、しばらく何も言わなかった。やがて小さくつぶやいた。
「……やはり、わたくしは行かねばなりません」
その日の午後、事件は起きた。申請書の下書きを片づけようとしたカリナの手元から、一枚こぼれ落ち、それを拾ったのがテオだったのだ。線の引かれた五行目。『船酔いの克服』。
「……カリナさん、船、苦手なんですか」
「ち、違います。それは、ただの下書きで」
「練習しましょう!」
――若い勇者の親切は止められなかった。かくして、カリナは王城の堀に浮かべた小舟に乗せられることになった。
結果は五分で出た。波もない堀の上で、カリナの顔はみるみる青くなった。
「……テオ様。岸へ。今すぐ岸へ」
「まだ一周もしてませんよ!」
「一周は規程にありません!」
――岸の上で、それを見ていたクロウとセリカが腹を抱えて笑った。カリナはふらふらと陸に上がり、手帳を取り出した。そして、私用の頁に小さく書きつけた。『目標。船酔いの克服。……これは、公の書類には書かない』。
さらに十日後。帝都から返事が届いた。筆頭官吏直筆の短い書状だった。『延長、認める。理由の二行目、よし。証人の一筆、なお、よし。……二度目だが、必ず帰ってこい』。カリナは、その書状をそっと手帳にはさんだ。私用の頁のあの一行のすぐ隣に。世界で一番地味な冒険は、一枚の申請書の理由の欄に、一人の財務官の故郷をそっと書き添えさせたのだった。




