第112話 港町の老船長いわく「記録? 航海が終わったら海に流すのが、船乗りの習わしでさあ」
王国の東のはずれ。港町ルンデは、潮の匂いでできていた。帆柱が林のように並び、カモメが屋根の上で鳴いている。石畳には網と樽と塩の粒。王都から馬車で五日。ライルとエルナ、クロウ、ヴァロの四人は、海の記録を探す最初の港としてここを選んだ。王国の東の海へ出る商船の半分が、この港を母港にしているからだ。
「……でかいな、海ってのは」
ライルは波止場でしばし立ち尽くした。魔王城まで陸の道はすべて歩いた。だが、海は初めてだった。
「あの向こうにヴェスパーがあるのか」
「船で二十日ほどと聞いております」
エルナが手帳を確かめる。その指先が、潮風に少し震えていた。彼女もまた、海を見るのは初めてだったのだ。
まず訪ねたのは、商人組合の帳場だった。港の入出を記録する王国の窓口である。帳場の主は人のよさそうな中年の男だったが、用件を聞くと、たちまち困った顔になった。
「十年分の船の記録ですか。……港を出た日と入った日の控えならございます。ですが、船の中でつけた帳面は、ほとんどここには届きません」
「届かない? なぜです」
ヴァロが身を乗り出した。
「ヴェスパーの港で何をいくら払ったか。それは船の帳面にしか書かれていないはず」
「ええ、ですから……」
主は言いにくそうに目をそらした。
「船乗りの習わしでして。詳しいことは、寄り合い所の爺さんにお聞きください。わたしの口からは、どうにも」
寄り合い所は、波止場の端の古い酒場だった。看板には錆びた錨の絵。昼間だというのに、中は日焼けした男たちでいっぱいだった。だが、四人が扉をくぐったその瞬間、笑い声がぴたりと止んだ。紺色の財務課の制服。酒場じゅうの目が、それをとらえていた。
「――お役人が何の用だ」
エルナはひるまずに用件を述べた。海の向こうの連合が十年、王国の商船からお金を取りすぎていたこと。それを返す用意があること。そのために十年分の記録が要ること。――だが、男たちは顔を見合わせ、鼻で笑った。
「お役人が金を返しに来ただと?」
「そんな話、海の上でも聞いたことがねえや」
「どうせ、返すと言ってまた何か取り立てるつもりだろう」
そのとき、奥の席から低いしわがれた声がした。
「――記録?」
窓際のいちばん古い椅子に、一人の老人が座っていた。七十をとうに越えているだろう。白いひげ。片目の上に古い傷。指は縄のこすれで節くれだっている。老人はパイプをゆっくりと口から離して言った。
「記録? 航海が終わったら、海に流すのが船乗りの習わしでさあ」
老人は名をヨハンといった。この港でいちばん古い船、『老いぼれカモメ号』の持ち主にして船長である。彼はその習わしをぽつりぽつりと語った。航海を終えて無事に港へ帰った、その夜。船長はその航海の帳面を波に返す。「無事に帰してくれて、ありがとうよ」と、海に礼を言いながら。帳面をいつまでも持っている船には、海が取り立てに来る。だから、ルンデの船乗りは百年そうしてきたのだ、と。
「……では、十年分の帳面は」
エルナの声がかすれた。
「みんな海の底でさあ」
ヨハンは、こともなげに答えた。ヴァロが小さくうめいた。
「五万枚の半分が海の底……」
――ライルは黙っていた。その習わしを責める気にはなれなかった。五年半前の自分も、領収書など紙きれだと思っていた。命がけで帰ってきた男たちが海に礼を言う。それのどこが悪いというのか。
だが、エルナは別のことに気づいていた。
「――ヨハン様。連合の書状には、こうあります。『記録の不備を理由に取りすぎた』と。ヴェスパーの港で、王国の船は帳面を出せなかったのではありませんか。前の航海の帳面がないから、何をどこで払ったか示せなかった。だから、多めに取られた」
老船長の眉がぴくりと動いた。
「……つまり、皆さんは海に帳面を返したせいで、帳場にお金を取られていたのです」
酒場が静まり返った。だが、ヨハンはやがて肩をすくめた。
「取られた分は、海に取られたと思ってきた。海は取るし、くれる。それで勘定は合う」
――諦めの声だった。周りの男たちもうなずいた。
「昔、税を取るだけ取って、二度と来なかった役人もいた」
「お役人の紙なんぞ信じるくらいなら、海を信じるさ」
エルナの理屈は正しかった。だが、正しい理屈だけでは、この酒場の扉は開かなかった。
そのとき、それまでずっと黙っていたクロウが口を開いた。彼は酒場に入った瞬間から一言もしゃべらず、ただあたりを見ていたのだ。壁に掛かった太い縄。その縄にびっしりと並んだ結び目。老船長のパイプの柄に刻まれた細かい傷。男たちの腕に彫られた小さな点の入れ墨。
「なあ、じいさん」
クロウは椅子を引いて、老船長の向かいにどっかと座った。
「帳面は海に流した。それはわかった。……でもよ、あんたら数えてねえわけじゃねえだろ」
彼はパイプを指さした。
「その柄の刻み。一本で一回の航海か。それに、あの壁の縄。結び目が、ただの飾りにしちゃきちんとそろいすぎてる」
ヨハンの片目がすっと細くなった。
「……お役人の連れにしちゃ、目がいいな」
「役人じゃねえよ」
クロウは、にやりと笑った。
「俺は昔、盗賊だった。盗んだもんは紙には書けねえ。書いたらそいつが証拠になるからな。だから、昔の兄貴分に習ったんだ。ナイフの柄に刻みを入れて数える。一つ刻めば、一つの稼ぎ。……紙を持てねえ奴は、紙の代わりに何かで数える。あんたらも同じだろう。紙は海に返す。でも、数だけは返さねえ」
酒場の男たちがどよめいた。そして――ヨハンが腹の底から笑いだした。
「盗賊あがりのお役人の連れか! こいつはいい!」
老人は立ち上がり、壁の縄をゆっくりと外した。太く、重く、潮に黒ずんだ一本の縄。
「こいつはな、『老いぼれカモメ号』の四十年だ。帳面は海に返す。だが、縄は返さん。縄は船の命だからな」
ヨハンは結び目を一つずつ指でたどった。
「結び目一つで、一回の入港。大きい結び目がヴェスパー。小さいのが王国の港。……で、この赤い糸を編みこんだ結び目は」
老人の声が少し低くなった。
「腹が立った日のしるしだ。どう見ても取られすぎた、と思った日に赤を編む。海に礼を言いながらも、それだけは忘れたくなくてな」
ヴァロが震える指で赤い結び目を数えはじめた。十年分のところだけ。
「……三十七」
彼は顔を上げた。
「この十年で三十七回。『老いぼれカモメ号』はヴェスパーで取られすぎています」
エルナは、その縄をそっと両手で受け取った。
「――これは記録です、ヨハン様。はやて亭の焼き印と同じ。暮らしと結びついたしるしです。港の出入りの控えと、この縄と、乗っていた皆さんの証言。それを合わせれば、帳面がなくても証明はできます」
「……本当に返ってくるのか」
老人が低く尋ねた。その目は、もう諦めてはいなかった。
「取りに行く」
ライルが答えた。
「俺たちが海を渡って。あんたの三十七回分、きっちり数えて取り返してくる」
――ヨハンは、しばらくライルの顔を見つめていた。それから、くるりと酒場の男たちに向き直った。
「おい、野郎ども! 自分の船の縄を持ってこい! お役人の旅に乗ってやろうじゃねえか!」
その夕方。錨の酒場は縄の山で埋まった。四十本、五十本、六十本。どの縄にも結び目が並び、ところどころに赤い糸が編みこまれていた。ヴァロは受付票のいちばん下の欄――『記録がない場合、その理由』――に、新しい書き方を加えた。『海に返した。縄あり』。
「……この欄がいちばん大事になると思っていました」
彼はつぶやいた。
「まさか、縄で埋まるとは」
日が沈むころ、ライルは波止場で一人、海を見ているクロウを見つけた。
「――お手柄だったな」
「よせよ」
クロウは照れくさそうに頭をかいた。
「俺の昔が役に立つ日が来るとはな。……あの刻みの数え方を教えてくれた兄貴分が聞いたら、笑うだろうよ」
「その兄貴分は、今どこに」
クロウは少し黙ってから、暗い海の向こうをあごでさした。
「さあな。……海の向こうに流れたって噂を、昔聞いたきりだ」
潮風が二人のあいだを吹き抜けた。波の音が遠くで縄のきしみとまじりあう。紙は海に返る。だが、数はどこかに残る。結び目に、刻みに、人の記憶に。世界で一番地味な冒険は、海の入り口で、紙の外にも記録があるということを、また一つ覚えたのだった。




