第111話 五万枚。十年分の商船の記録を出せと、海の向こうから言われる
海の向こうから書状が届いた翌朝。地下二階の長机には、その一通がぽつんと置かれていた。帆船と羅針盤の青い封蝋。ヴェスパー海洋連合、財務評議会のしるしである。
集まったのは、いつもの面々だった。ライル、エルナ、ヴァロ、メルツ、ザイデル。留学中のカリナ。そして、課長のフェルゼン。老人は書状を三度読み返してから、静かに置いた。
「――まず、落ち着いて中身を分けよう。一度に全部を見ると、人はたいてい腰を抜かす」
エルナが書状の要点を紙に書き出していった。
「一つ。連合は、わたしたちの『旅人の経費条約』に加わることを考えている。二つ。ただし、海の商いのやり方と食い違うところが二十三ある。三つ。その食い違いを直すため、三つの国で話し合いたい。そして――四つ目」
彼女の筆が、わずかに止まった。
「連合は過去十年、王国と帝国の商船から、『記録の不備』を理由にお金を取りすぎていた。その額、金貨一万二千枚。返したいが、返すには十年分の記録が要る」
「一万二千枚か」
ライルがうなった。
「五年半前、俺が失くしかけた旅の経費が金貨二百枚だった。その六十倍だ」
「規模が違いすぎて、かえって実感がわきませんな」
メルツが眼鏡を押し上げた。
「ちなみに、一万二千枚あれば、王国の灯台をすべて三十年灯し続けられます」
「そういうたとえは要らん」
ザイデルが、ぴしゃりと言った。
「気になるのは、四つ目の中身です」
カリナが書状の一行を指した。
「『記録の不備』。……海の商いで、いったい何が不備とされたのでしょう。港に入るたび、船は何かの書類を出していたはず。そのどこかが欠けていた、と」
「それを確かめるには、船の記録そのものを見るしかない」
ヴァロが腕を組んだ。
「――では、王国の商船の記録はどこにあるのか」
部屋が、しんと静まった。誰も答えを知らなかった。王国の財務課は、陸の旅の経費には詳しい。だが、海の商いは、ほとんど港町の商人たちに任されてきた。港には港の帳場があり、船には船の帳面がある。それがどこに、どれだけ残っているのか――地下二階の誰一人、見当がつかなかった。
「数を見積もってみましょう」
エルナが羽根ペンを取った。
「王国と帝国、あわせて東の海に出る商船は、およそ四百隻。一隻が一年にヴェスパーの港へ入るのが平均六回。一回の入港で出す書類が二枚。……十年分で」
彼女のペンが止まった。
「――四万八千枚。それに積荷の目録や船員の名簿を足せば、五万枚は超えます」
「五万枚……」
ヴァロが青ざめた。
「五年半前、ライル様の第七号様式は十七枚でした」
「十七枚で、あれだけ大騒ぎしたのにな」
ライルは乾いた笑いを漏らした。
「今度は三千倍か」
「数もですが、問題は中身です」
ザイデルが静かに言った。
「十年前と言えば、まだ魔王がいた時代だ。海も荒れていた。沈んだ船も多い。記録ごと海の底に消えたものもあるだろう。……五万枚、全部がそろうとは思わんほうがいい」
「そろわない分は、どうなりますか」
カリナが尋ねた。
「返還金も、その分戻らない、ということに」
「――それだけは、させん」
フェルゼンが低く言った。一同が老人を見る。
「取りすぎた金は、取られた者の金だ。記録がないから返せない、では筋が通らん。……記録がないところは、別の証明で埋める。支払証明書もある。焼き印もある。宿帳もある。この三年半で、わしらはそういう道具を作ってきた。今度は、それを海で使う番だ」
四十五年、規程を守ってきた老人のその一言で、部屋の空気が変わった。
「――分担を決めましょう」
エルナが立ち上がった。
「王国側の記録集めは、港町の商人組合と港の帳場を回ります。帝国側は、主計局長に書状を。……そして、もう一つ」
彼女は書状の二つ目の項目を指した。
「二十三の食い違い。これは、机の上では直せません。海の商いを、この目で見なければ」
「つまり」
ライルが笑った。
「三度目の旅だな」
「帝国側は、わたくしが書状を」
カリナが、すかさず申し出た。
「主計局長なら、帝国の港の帳場を一月で洗い出せます。あの方の几帳面さは、ガランさんと四十八通やり合ったお墨付きです」
「頼もしいな」
ライルが笑った。
「……それと、もう一つお願いが」
カリナは、少し言いにくそうに続けた。
「留学の期限が、あとひと月で切れます。延長の申請を出させていただきたいのです。海の旅が終わるまで」
エルナが微笑んで、うなずいた。
「理由の欄に、何と書かれますか」
「……それを今夜考えます」
「わしは残る」
フェルゼンが言った。
「二年前、国境まで出張してわかった。この年寄りの足では、海は無理だ。……それに、誰かがここに残らねばならん。五万枚の記録が、王国じゅうからこの地下二階に集まってくる。それを受け止める机が要る」
「課長……」
「若い職員たちを借りるぞ。それと、ヴァロの様式を一つ作ってくれ。『海の記録受付票』。港の帳場が迷わずに送ってこられるようにな」
ヴァロは、その場で羽根ペンを取った。一枚の紙に欄を引いていく。船の名前。入港の日。港の名。書類の種類。そして、一番下に少し広めの欄。『――記録がない場合、その理由を書いてください。沈んだ、流された、燃えた。わからない、でも構いません』。
「……この欄が、いちばん大事になる気がします」
ヴァロはつぶやいた。
「五万枚のうち、何枚がこの欄で戻ってくるか」
その日の夕刻、地下二階から王国じゅうの港町へ書状が発った。宛先は、港の帳場、商人組合、そして船乗りたちの寄り合い所。文面は短かった。『――十年分の海の記録を探しています。どんな切れ端でも構いません。取られすぎたお金を取り返すために』。
窓の高いところから、夕日が差し込んでいる。五年半前、この同じ部屋で、一人の勇者が一枚の紙の前で膝を折った。今日、その同じ部屋から、五万枚を探す旅が始まろうとしていた。
「――なあ、エルナさん」
ライルがふと言った。
「俺、船に乗ったことがないんだ」
「わたしもです」
エルナは、少しだけ不安そうに微笑んだ。
「……船の上の寝床は、宿泊費になるのでしょうか。それとも、運賃に含まれるのでしょうか」
「それ、たぶん揉めるやつだな」
――世界で一番地味な冒険の三度目の幕が、静かに上がった。




