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勇者、経費で落ちません  作者: みき
第2幕 国際編

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110/118

第110話 条約は、生きている。そして、海の向こうから、三通目の請求書が届く

 春が巡ってきた。


 王城の地下二階は、その朝もいつも通りだった。羽根ペンの音。算盤の音。窓の高いところから差し込む、やわらかな光。壁には、いつのまにか貼り紙が増えていた。国境の市からの礼状。灯火屋からの便り。はやて亭の焼き印の押された一枚。そして――東の村から届いた子どもの絵。井戸の絵だった。テオの感謝金で直された、あの村の井戸である。


 カリナの留学は、あとひと月で終わる。彼女の机は、いつのまにか地下二階の風景に溶け込んでいた。


「――エルナ様。第五十四条の補則、帝都で承認されたそうです」


「よかった。……リナ様に、お知らせを」


「もう、しました。お礼の書状が届いております。『次は、もっと細かい困りごとを報告します』と」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 その日、財務課に来客があった。魔王――いや、マオウ・ソフトの創業者である。


「――お待たせいたしました」


 彼は、大きな包みを抱えていた。


「完成いたしました。『二国間対応、第二版』。……あの『約三・五シルバー』を通してみましょう」


 ガランが装置を組み上げ、あの伝説の第七号様式の写しを読み込ませる。装置は、かたかたと鳴り、そして――一枚だけ紙を吐き出した。


『――金額欄、約三・五シルバー。物語欄、「本人の記憶による概算。三か月の旅の初日。同行者三名の証言あり」。……この記録は正直です』


「――物語欄」


 ライルが、その一枚を手に取った。


「あの手紙に書いてたやつか」


「はい」


 魔王は、少し誇らしげにうなずいた。


「灯火屋の宿帳を見て思いついたのです。数字の欄の隣に、物語の欄を。……人間の帳簿には、昔からあったものでした。わたしが気づかなかっただけで」


 その装置は、その後、両国の窓口に少しずつ置かれていくことになる。


 夕刻。仕事を終えた面々が、あの安宿の一室に集まった。ライル、エルナ、テオ、クロウ、セリカ、ミラ。ザイデル、メルツ、ヴァロ。そして、カリナ。


「――カリナさんの送別会には、まだ早いけどな」


 クロウが杯を掲げた。


「二年半、お疲れさん! 請求書一通から、条約九十六条! よくやった、俺たち!」


 賑わいのなかで、テオがふと言った。


「僕、この二年半で、いちばん変わったのは……『世界を救う』の意味です」


 皆が彼を見る。


「昔は、魔獣を倒すことだと思ってました。でも、今は違います。倒したあとに、誰かが泣かないようにするところまでが、たぶん『救う』なんです。……それは剣じゃできない。だから、僕はこれからも剣を振りますけど――そのあとの書類も、ちゃんと書きます」


「立派になったな、新人」


 ライルが笑った。


「もう、新人じゃないですよ」


「俺の中じゃ、ずっと新人だ」


――笑い声が部屋に満ちた。かつて四人だった旅の輪は、いつのまにか、こんなにも大きくなっていた。国も、役所も、立場もばらばらの面々が、一つの卓を囲んでいる。


――だが、その賑わいは翌朝、破られた。


 地下二階の扉が勢いよく開いた。転がり込んできたのは、王の側仕えの文官。顔が真っ青だった。


「し、失礼します! 至急、ご確認いただきたい書状が――」


 その手には、見慣れぬ封書があった。ぶ厚い上質紙。封蝋の紋章は、鷲でも王冠でもない。――帆船と羅針盤を組み合わせた、青い印である。


「これは……」


 エルナが息をのんだ。


「海の向こう。ヴェスパー海洋連合の紋章です」


「連合? 王国と国交は」


「ほとんどございません。商船が年に数隻、来るのみ。……宛名をご覧ください」


 文官の指が震えていた。宛名には、こうあった。――『王国およびグランツ帝国、両財務当局、御中』。


 封を切り、エルナが読み上げた。


「『――ヴェスパー海洋連合、財務評議会より。両国が締結せる旅人の経費条約、全九十六条を拝読した。優れた条約と認める。よって、以下通知する。一、連合は当条約への加入を検討する。二、ただし、当連合の海上取引の慣行と二十三点の齟齬が認められる。三、齟齬の修正について、三国協議の場を求める。四、なお――』」


 エルナの指が、最後の一行で止まった。


「……『なお、当連合が過去十年、両国の商船に課してきた記録不備による過徴収額。総額、金貨一万二千枚。両国への返還について、併せて協議したい。……ただし、返還には両国の記録の提出が必要である。過去十年分のすべて』」


 財務課が静まり返った。過去十年分。両国のすべての商船の記録。


「……エルナさん」


 クロウが乾いた声で尋ねた。


「それ、集めたら何枚になる」


「概算で――五万枚を超えます」


 カリナが、思わず天を仰いだ。


「留学の期限、延ばしていただけないでしょうか。帝都に書状を書きます」


 ライルは、しばし天井を見上げ、それから、ゆっくりと羽根ペンを手に取った。


「……なあ、エルナさん。三年半前、俺は、たった一枚の領収書をなくして途方に暮れてた」


「はい」


「今度は五万枚だ。しかも、こっちの取り分は金貨一万二千枚。……取り返さなきゃならない」


 彼は、にっと笑った。三年半前と同じ、けれど、まるで違う笑いだった。


「――海の向こうか。船に乗るのは初めてだな」


 エルナも静かに微笑んだ。彼女は、すでに新しい帳面を開き、最初の一行を書きつけている。『第三の旅、支度。五万枚の記録を集めるための算段』。


 窓の高いところから、春の光が差し込んでいる。三年半前、ここで一人の勇者が、一枚の紙の前で膝を折った。いま、その同じ机の上には、海の向こうから届いた新しい請求書が置かれている。


 世界で一番地味な冒険は――まだ終わらない。二つの国から、三つの国へ。陸の道から、海の道へ。羽根ペンを握る、その手が次にどこまで届くのか。その答えは、まだ、どの帳簿にも書かれていない。

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― 新着の感想 ―
一旦のお休みに入られるとの事、改めて御礼と「お疲れさまでした」を申し上げます。 50話ほどで完結する予定とのお話、当方もその程度でまとめてしまわれると思っていましたが、尽きない文才がそこで止まらなか…
2026/10/18 14:20 久しぶりの愛読者
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