第110話 条約は、生きている。そして、海の向こうから、三通目の請求書が届く
春が巡ってきた。
王城の地下二階は、その朝もいつも通りだった。羽根ペンの音。算盤の音。窓の高いところから差し込む、やわらかな光。壁には、いつのまにか貼り紙が増えていた。国境の市からの礼状。灯火屋からの便り。はやて亭の焼き印の押された一枚。そして――東の村から届いた子どもの絵。井戸の絵だった。テオの感謝金で直された、あの村の井戸である。
カリナの留学は、あとひと月で終わる。彼女の机は、いつのまにか地下二階の風景に溶け込んでいた。
「――エルナ様。第五十四条の補則、帝都で承認されたそうです」
「よかった。……リナ様に、お知らせを」
「もう、しました。お礼の書状が届いております。『次は、もっと細かい困りごとを報告します』と」
二人は顔を見合わせて笑った。
その日、財務課に来客があった。魔王――いや、マオウ・ソフトの創業者である。
「――お待たせいたしました」
彼は、大きな包みを抱えていた。
「完成いたしました。『二国間対応、第二版』。……あの『約三・五シルバー』を通してみましょう」
ガランが装置を組み上げ、あの伝説の第七号様式の写しを読み込ませる。装置は、かたかたと鳴り、そして――一枚だけ紙を吐き出した。
『――金額欄、約三・五シルバー。物語欄、「本人の記憶による概算。三か月の旅の初日。同行者三名の証言あり」。……この記録は正直です』
「――物語欄」
ライルが、その一枚を手に取った。
「あの手紙に書いてたやつか」
「はい」
魔王は、少し誇らしげにうなずいた。
「灯火屋の宿帳を見て思いついたのです。数字の欄の隣に、物語の欄を。……人間の帳簿には、昔からあったものでした。わたしが気づかなかっただけで」
その装置は、その後、両国の窓口に少しずつ置かれていくことになる。
夕刻。仕事を終えた面々が、あの安宿の一室に集まった。ライル、エルナ、テオ、クロウ、セリカ、ミラ。ザイデル、メルツ、ヴァロ。そして、カリナ。
「――カリナさんの送別会には、まだ早いけどな」
クロウが杯を掲げた。
「二年半、お疲れさん! 請求書一通から、条約九十六条! よくやった、俺たち!」
賑わいのなかで、テオがふと言った。
「僕、この二年半で、いちばん変わったのは……『世界を救う』の意味です」
皆が彼を見る。
「昔は、魔獣を倒すことだと思ってました。でも、今は違います。倒したあとに、誰かが泣かないようにするところまでが、たぶん『救う』なんです。……それは剣じゃできない。だから、僕はこれからも剣を振りますけど――そのあとの書類も、ちゃんと書きます」
「立派になったな、新人」
ライルが笑った。
「もう、新人じゃないですよ」
「俺の中じゃ、ずっと新人だ」
――笑い声が部屋に満ちた。かつて四人だった旅の輪は、いつのまにか、こんなにも大きくなっていた。国も、役所も、立場もばらばらの面々が、一つの卓を囲んでいる。
――だが、その賑わいは翌朝、破られた。
地下二階の扉が勢いよく開いた。転がり込んできたのは、王の側仕えの文官。顔が真っ青だった。
「し、失礼します! 至急、ご確認いただきたい書状が――」
その手には、見慣れぬ封書があった。ぶ厚い上質紙。封蝋の紋章は、鷲でも王冠でもない。――帆船と羅針盤を組み合わせた、青い印である。
「これは……」
エルナが息をのんだ。
「海の向こう。ヴェスパー海洋連合の紋章です」
「連合? 王国と国交は」
「ほとんどございません。商船が年に数隻、来るのみ。……宛名をご覧ください」
文官の指が震えていた。宛名には、こうあった。――『王国およびグランツ帝国、両財務当局、御中』。
封を切り、エルナが読み上げた。
「『――ヴェスパー海洋連合、財務評議会より。両国が締結せる旅人の経費条約、全九十六条を拝読した。優れた条約と認める。よって、以下通知する。一、連合は当条約への加入を検討する。二、ただし、当連合の海上取引の慣行と二十三点の齟齬が認められる。三、齟齬の修正について、三国協議の場を求める。四、なお――』」
エルナの指が、最後の一行で止まった。
「……『なお、当連合が過去十年、両国の商船に課してきた記録不備による過徴収額。総額、金貨一万二千枚。両国への返還について、併せて協議したい。……ただし、返還には両国の記録の提出が必要である。過去十年分のすべて』」
財務課が静まり返った。過去十年分。両国のすべての商船の記録。
「……エルナさん」
クロウが乾いた声で尋ねた。
「それ、集めたら何枚になる」
「概算で――五万枚を超えます」
カリナが、思わず天を仰いだ。
「留学の期限、延ばしていただけないでしょうか。帝都に書状を書きます」
ライルは、しばし天井を見上げ、それから、ゆっくりと羽根ペンを手に取った。
「……なあ、エルナさん。三年半前、俺は、たった一枚の領収書をなくして途方に暮れてた」
「はい」
「今度は五万枚だ。しかも、こっちの取り分は金貨一万二千枚。……取り返さなきゃならない」
彼は、にっと笑った。三年半前と同じ、けれど、まるで違う笑いだった。
「――海の向こうか。船に乗るのは初めてだな」
エルナも静かに微笑んだ。彼女は、すでに新しい帳面を開き、最初の一行を書きつけている。『第三の旅、支度。五万枚の記録を集めるための算段』。
窓の高いところから、春の光が差し込んでいる。三年半前、ここで一人の勇者が、一枚の紙の前で膝を折った。いま、その同じ机の上には、海の向こうから届いた新しい請求書が置かれている。
世界で一番地味な冒険は――まだ終わらない。二つの国から、三つの国へ。陸の道から、海の道へ。羽根ペンを握る、その手が次にどこまで届くのか。その答えは、まだ、どの帳簿にも書かれていない。




