第109話 新しい勇者が、国境で剣を抜いた。そして、三日で精算が終わった
条約の施行から半年。その報せは、東の国境から届いた。
『――国境の山地に、魔物の大群出現。王国の村二つが襲われ、帝国側の集落にも被害。討伐にあたるは、王国の若手騎士リナ、ならびに帝国騎士団、国境駐屯部隊』。
地下二階に、その報せが届いたとき、若い職員たちが色めき立った。
「討伐です! しかも、国境で!」
「――ついに来ましたね」
エルナが静かに立ち上がった。
「条約の初めての実戦です」
討伐そのものは、五日で終わった。王国の若手騎士リナが先陣を切り、帝国駐屯部隊が退路を断つ。街道を守り続けてきた、あの部隊の地の利が生きた。両国の剣が初めて、同じ群れに向かって振るわれた戦いだった。死者はなし。重傷者、三名。村は二つとも避難が間に合った。
問題は、そのあとである。――かつてなら、ここから一年半が始まった。だが、今回は違った。
討伐の翌日。国境の行政都市の窓口に、リナが書類を抱えて飛び込んできた。
「――す、すみません! 討伐の精算をお願いしたいのですが!」
対応した係官は慌てなかった。
「はい、討伐ですね。条約、第八条の案件です。こちらの三枚にご記入を。ああ、領収書がない分は、支払証明書で結構です。証人は、部隊の方で」
「ええと、帝国側の被害の扱いは……」
「両国四局の合同認定です。すでに、獣害局と災害対策局に通知が行っております」
リナは、ぽかんとしていた。
「……あの、聞いていた話と違うのですが。先輩方から、『討伐の精算は地獄だ』と。テオ様は一年半かかったと」
「一年半前は、条約がなかったのです」
係官は笑った。
「今は、条文の番号を読み上げるだけで済みます。……三日いただければ、片づきます」
――そして、本当に三日で終わった。
報せが地下二階に届いたとき、財務課は一瞬静まり返り、それから拍手が起きた。若い職員たちが抱き合って喜んでいる。ヴァロは報告書を握りしめ、声を詰まらせていた。
「……三日です。一年半が三日に。……九十六条は、生きておりました」
報告書には、興味深い一節があった。討伐の最中、王国の騎士と帝国の駐屯兵が、負傷者をめぐって一度揉めたという。どちらの医師に診せるか。どちらの費用にするか。――だが、その場を収めたのは、若い帝国兵の一言だった。
「条約に書いてある。近いほうの医師に、すぐ診せる。金は、あとで両国が分ける」
……剣を握る若者が、条文を諳んじていた。ザイデルが、そのくだりを二度読み返した。
「――条文が現場に届いておる。これが、いちばん難しいことなのだ」
数日後、リナが王都へ報告に来た。まだ二十歳そこそこの女性騎士である。彼女は財務課で、深々と頭を下げた。
「――お礼を申し上げに参りました。精算が三日で終わりました。おかげで、わたしはすぐ村の片づけに戻れました。……本当にありがとうございます」
「礼はいらんよ」
ライルが笑った。
「それが当たり前になるのが、いちばんいい。……ただ、一つ聞かせてくれ。何か、困ったことはなかったか」
リナは、少し考えてから答えた。
「一つだけ。……重傷を負った部下の治療費のことです。帝国側の医師に診てもらったのですが、支払いがマルクで。両替の記録がなくて、少し揉めました。最後は通りましたが」
エルナとカリナが、同時に羽根ペンを取った。
「――第五十四条の穴です」
「はい。緊急の治療費に、両替記録を求めるのは酷です」
「補則を書きましょう。『生命に関わる緊急の支出は、事後の換算を認める』」
二人が、その場で条文案を書きはじめる。リナが目を丸くした。
「あ、あの、そんな大ごとに」
「大ごとです」
カリナが真顔で答えた。
「あなたが困ったなら、次の誰かも必ず困ります。……声を上げてくださって、ありがとうございます」
その様子を、テオが少し離れて見ていた。かつて、自分が青ざめて立っていたその場所に、いま新しい勇者が立っている。だが、彼女は絶望していない。困りごとを報告し、それが条文になる、その瞬間に立ち会っている。
「――テオ様」
リナが彼に気づいて駆け寄った。
「あなたが一年半かけて、道を作ってくださったと伺いました。おかげで、わたしは三日で済みました。……いつか、わたしも次の誰かのために、何か残せるようになりたいです」
テオは、しばし言葉を探し、それから静かに笑った。
「――もう、残してるよ。今日、あなたが報告した治療費の話。あれが条文になる。次の誰かは、そこで困らない」
リナの顔が、ぱっと明るくなった。
「……そうか。そういうことなんですね」
「そういうことだ」
その夜、地下二階には遅くまで灯りがついていた。第五十四条の補則。たった一行の追加。だが、その一行のために、エルナとカリナとヴァロは三時間、言葉を選び続けた。
「――『緊急』の定義が広すぎます。悪用の余地が」
「では、『医師の判断による』と限定を」
「その医師がいない場所では?」
「……『医師、または、それに準ずる者』」
――窓の高いところから、月が覗いている。世界で一番地味な二度目の冒険は、その終わりの近くで、次の世代へ静かに松明を渡していた。




