第108話 カリナ、王国へ交換留学。地下二階に、帝国の机が一つ増える
条約、第八十八条。『両国は、相手国の財務実務を学ぶため、職員を相互に派遣することができる』。――通称、交換留学の条文である。起草のあいだ、いちばんあっさりと通った条文の一つだった。誰も反対しなかった。だが、誰も真っ先に手を挙げるとは思っていなかった。
「――第一号に志願いたします」
カリナが、そう申し出たのは、条約の施行からひと月後のことだった。帝国財務省は騒然となった。現場調査室の室長。九十年の規程を動かした立役者。将来の次官候補と目される、その人物が、他国の地下の役所へ一年下りるというのだ。
「出世を棒に振るつもりか」
第一局の筆頭官吏は、そう言って渋い顔をした。だが、カリナは静かに答えたという。
「わたくしは、二年前まで帝都の机しか知りませんでした。現場を見て、初めて書状の書き方が変わりました。……次は、他国の机です。王国の財務課が、どう人を支えているのか。それを、この身で覚えて帰りたいのです」
筆頭官吏は、長い沈黙のあと、判を押した。
「――行ってこい。ただし、必ず帰ってこい」
かくして、初夏の終わり。王城の地下二階に、机が一つ増えた。深い青の制服が、紺色の制服のあいだに混じる。
「――本日より一年、こちらで学ばせていただきます。グランツ帝国財務省、カリナ・ヴェルトと申します。何卒、ご指導のほど」
深々と頭を下げた、その姿に、若い職員たちは緊張で固まった。
「エルナ様と条約を作った、あの方だ……」
「本物だ……」
だが、その緊張は初日の午前で解けた。カリナが真っ先に命じられたのは、書類の仕分けだったのだ。
「――カリナ様。まずは、これを」
エルナが、山のような申請書を指した。
「一枚ずつ目を通し、不備のあるものを選り分けてください。……室長のお仕事とは程遠いですが」
「望むところです」
カリナは袖をまくった。
「現場は、いつもいちばん下から見るものと決めております」
その仕分けが、王国の財務課に小さな衝撃を与えた。半日で、カリナは山を片づけ、そのうえで不備の傾向を一枚にまとめて提出したのだ。『不備、全四十七件。うち、二十九件が、「支払先の記載漏れ」。原因は、様式の第二欄の注意書きが小さすぎること。改善案、添付』。
――ヴァロが、それを読んでうなった。
「……たった半日で、様式の欠陥を見つけましたか」
「帝国では、まず傾向を数えます」
カリナは、こともなげに答えた。
「一枚ずつ直すのは、対処。傾向を直すのが、改善です」
逆に、カリナが驚かされることも多かった。ある日、窓口に字の書けない老婆が来た。若い職員が、当たり前のように隣に座り、話を聞きながら代筆をはじめる。
「――あの、勝手に書いてよろしいのですか。帝国なら、本人の署名が」
「代筆は認められてます」
職員は笑った。
「ただし、書いたあと、必ず読み上げて、『これで間違いないですか』って確かめるんです。それが決まりで」
老婆がうなずくのを確かめてから、職員は代筆の欄に自分の名を記した。『代筆。読み上げ、確認、済み』。
カリナは、その一連のやり取りをじっと見ていた。
「……美しい仕組みです」
彼女はつぶやいた。
「本人の意思を守りながら、書けない人を締め出さない。しかも、読み上げの確認まで記録に残る。……帝国にはない発想です」
「三年前にできた決まりです」
職員が答えた。
「勇者様の旅で、字の書けない御者さんがいらしたとか。それがきっかけだと聞いてます」
――遠い国境の焼き印が、こんな窓口の片隅にまで根を張っていた。
秋には、カリナはすっかり地下二階に馴染んでいた。若い職員たちは、彼女を『カリナ先生』と呼びはじめ、帝国式の傾向分析をこぞって習った。逆に、カリナは王国式の『但し書きの余白』の使い方を覚えた。ある日、彼女が書いた申請書の余白に、こんな一行があるのをエルナが見つけた。『――申請者、足が悪く、窓口まで来られず。書類は、家人が持参。次回より、出張窓口の対象とすべし』。
「――カリナ様。この一行」
「あ」
カリナが、少し赤くなった。
「つい……帝国の様式なら、書く場所のないことです。ですが、書いておかねば、次の担当者がまた同じことを繰り返すと思って」
「それが、王国式の余白です」
エルナは微笑んだ。
「あなたは、もうこちらの書き方を覚えられました」
クロウが、たまに村から顔を出しては、カリナをからかった。
「よお、帝国のお嬢さん。もう、崖道は怖くねえのか」
「おかげさまで。……ですが、王都の大階段は、いまだに少し苦手です」
「あれの、どこが」
「段が多すぎます。数えてしまうのです。二百十四段」
「……あんた、やっぱりそういう人だな」
そのやり取りに、地下二階がどっと沸いた。かつて、書状一枚で王国を震え上がらせた帝国の財務官は、いまや、この地下の笑い声の真ん中にいた。
冬のはじめ、フェルゼンがカリナを呼んだ。
「――ヴェルト殿。留守中、財務課の様式の見直しを任せたい」
「わたくしにですか。他国の者に」
「他国の目が要るのだ」
老人は、こともなげに言った。
「四十年、ここにおると、当たり前が見えなくなる。……お前さんは、半日で注意書きの大きさを見抜いた。あの目が要る」
カリナは、しばし言葉を失い、それから深く頭を下げた。
「――謹んで、お受けいたします」
その夜、彼女は帝都の筆頭官吏へ、報告の書状をしたためた。『――本日、王国財務課より様式見直しの任を賜りました。他国の者に、内部の様式を任せる。帝国では考えられぬことです。ですが、この地下二階には、それを許す懐の深さがあります。……わたくしは多くを学んでおります。持ち帰るべきものは、書式ではなく、この懐の深さかもしれません』。世界で一番地味な二度目の冒険は、条約という屋根の下で、一人の財務官を静かに育てはじめていた。




