第107話 王都へ帰還。地下二階は、あの日と同じ静けさで待っていた
帰りの街道は、来たときよりずっと賑やかだった。
条約が調印されたと聞いて、国境の市は祭りのような騒ぎになっていた。荷馬車の列が途切れない。帝国の行商人が王国の宿に堂々と泊まり、王国の商人が帝国の両替商の前に行列を作っている。
「――一年半前は、この道、閑散としていたのにな」
ライルは馬車の窓から、その光景を眺めた。
「あの書状一通から、ここまで来たか」
途中、一行は約束通り、灯火屋に寄った。若主人は、店のいちばんいい壁に、あの額を飾っていた。帝国貴族院からの条約の写しである。
「――親父の宿帳が条約を動かしたって聞いたときは、信じられませんでした」
若主人は、照れくさそうに笑った。
「うちは、ただの宿ですよ。旅の人に飯を出して、寝床を貸すだけの」
「それが、いちばん大事だったんだ」
ライルが答えた。
その夜、一行は灯火屋で祝いの酒を酌み交わした。若主人は父の宿帳を開き、あの二行を指でなぞりながら、静かに泣いていた。
はやて亭にも寄った。隠居の老人は、帝国財務省からの書状を額に入れて、店に飾っていた。
「わしのしるしが、海の向こうまで行っただとよ!」
老人は来る客、来る客にその話をするらしく、息子が苦笑いしていた。
「親父、もう百回は話してますよ」
「百一回目だ。何か、文句があるか」
――その賑やかさに、一行は腹を抱えて笑った。
王都に着いたのは、初夏の夕暮れだった。城下の大通りには、歓声も花びらも楽団もなかった。条約の調印は大きな報せではあったが、剣を掲げた凱旋とは違う。人々はいつも通りに商いをし、子どもたちはいつも通りに走り回っていた。
テオが、少し寂しそうにつぶやいた。
「……静かですね」
「これが、いちばんいい景色だ」
ライルは笑った。
「三年前、俺が凱旋したときは大騒ぎだった。世界が救われたって、みんなが泣いて喜んだ。……それは、その前にみんなが怯えて暮らしてたからだ。今日、誰も騒がないのは、誰も怯えてないからだよ。……こっちのほうが、ずっといい」
テオは、その言葉をしばらく噛みしめてから、深くうなずいた。
城下の片隅で、ミラがふと足を止めた。小さな教会の前に、母子が立っている。
「――あの方、以前、ご主人を亡くされて、見舞金の手続きに来られた方です」
ミラは静かに言った。
母親はミラに気づくと、深く頭を下げ、子どもの手を引いて去っていった。その背筋は、以前よりずっとまっすぐだった。
「……よかった」
ミラは小さくつぶやいた。
「あの方は、もう、わたしを必要となさっていません。それが、いちばんの報告です」
王城の門をくぐり、一行はあの階段を下りていった。上るほどに豪奢になる王城とは逆に、地下へ向かうほど壁は無骨になる。だが、階段のところどころには、絵入りの案内板。『財務課は、こちら。手続きは、怖くありません。一緒に進めましょう』。セリカの描いた絵が、少し色あせて、けれど変わらず、そこにあった。
地下二階の扉を開けると――そこは、あの日と同じ静けさだった。羽根ペンの走る音。算盤の乾いた音。紙とインクの匂い。窓の高いところから、夕日が一筋。一年半、国境で条約を作っていた、その喧噪が嘘のように、財務課はいつもの顔でそこにあった。
「――お帰りなさいませ!」
若い職員たちが一斉に立ち上がった。留守を預かっていた面々である。フェルゼンが真っ先に卓へ向かい、留守中の帳簿を検めはじめた。
「……ふむ。第七号様式の控え、番号が二つ飛んでおる」
「あ、す、すみません、それは」
「怒ってはおらん。理由を書いておけ。飛んだ番号は、飛んだ、と。それだけで、十年後の誰かが助かる」
――四十三年ぶりの旅から帰ったその日に、老人は、もういつもの課長に戻っていた。
エルナは自分の机の前に立ち、しばらく動かなかった。積み上がった書類。留守中の報告。そして、机のいちばん上に一冊の帳面が置かれていた。若い職員が置いたらしい。表紙に、こう書かれている。『留守中の困りごと。エルナ様がお戻りになったら、ご相談したいこと』。
開くと、几帳面な字でいくつもの相談が並んでいた。『山あいの村から、字の読めない方の申請が。しおりを読んでもらう人がいないそうです』『東部の行商人が、両替の記録をなくしたと。支払証明書でいけますか』『子どもの名で届いた、遺族への見舞金。代理署名は、何歳から可ですか』――一年半、留守にしていたあいだも、地下二階には、こうして人の困りごとが届き続けていた。
「……ライル様」
エルナが、その帳面を抱えて振り返った。その目には、疲れよりも確かな光があった。
「条約は結びました。九十六条、できました。……ですが、本当の仕事は、ここです。この一冊です」
「ああ」
ライルはうなずいた。
「条約は屋根だ。屋根を架けても、雨漏りする場所は必ずある。……それを一つずつ直すのが、俺たちの仕事だ」
彼は自分の机に着き、羽根ペンを取った。三年前、剣より重く感じた、あの細い道具。いまは、しっくりと手に馴染む。
「――さて。第一号。『字の読めない方へのしおり』。……これは、セリカに頼もう。絵を増やしてもらう。それと、読み上げの係を村に一人ずつ置けないか、考えよう」
職員たちが慌てて書き取りはじめた。地下二階の夜は、まだ始まったばかりだった。
世界で一番地味な二度目の冒険は、こうして始まった場所へと帰ってきた。国境も条約も皇帝も遠い。ここにあるのは、机と紙と、困っている誰かの名前だけ。――だが、ライルはもう知っている。世界は、そこから変わるのだと。




