第106話 魔獣の報酬、ついに確定。テオ、二つの国から正当に報われる
条約の調印から十日。国境の行政都市の市庁に、両国の財務官がもう一度集まった。議題は、ただ一つ。――一年半、宙に浮いたままだった、あの討伐報酬の最終確定である。
卓の中央に置かれたのは、たった三枚の書類だった。王国の新しい精算書。帝国の両面一枚。そして、二つを結ぶヴァロの対照表。
「――一年半前、この案件の書類は何枚ございましたか」
ヴァロが静かに尋ねた。
「五十七枚です」
カリナが即答した。
「討伐報告、被害算定、境界図、税の区分、按分の計算案、そして、すべての往復書簡」
「それが、今日は三枚です」
ヴァロは深く息を吐いた。
「……九十六条を作った意味は、この三枚にあります」
手続きは、驚くほど静かに進んだ。討伐の正当性は、二国基準、第八条『緊急の危難に対する行為の記録』により、双方確認済み。境界は、あの石碑を基点に合同測量が済んでいる。被害の区分は、『魔獣による被害。規模、災害級』の一行で、両国四局の判がそろっている。税は、支払う側の王国が課す。帝国からは、按分ではなく感謝金。――かつて、半日議論しても決まらなかった、そのすべてが、いま条文の番号を読み上げるだけで片づいていった。
「……あの」
テオが、おずおずと手を挙げた。
「もう、僕は何もしなくていいんですか」
「はい」
エルナが微笑んだ。
「あとは、金額の確認と受け取りの署名だけです」
「一年半、待ったのに……こんなにあっさり」
「それが、決まりのあるということです」
カリナが静かに言った。
「決まりがないときは、人が何日も揉めます。決まりがあれば、条文の番号を読み上げるだけで済む。……わたくしどもは、このあっけなさを作るために、一年半費やしたのです」
金額が読み上げられた。王国からの討伐報酬。そこから王国の税を引いた手取り。そして、帝国からの感謝金――按分の計算からではなく、皇帝が自ら決めた数字だった。
「――ずいぶん多いですね」
テオが目を丸くした。
「わたくしも驚きました」
カリナがうなずいた。
「陛下は、こうおっしゃったそうです。『割り算ではなく、心から出した数字にすると約束した。ならば、村三つの感謝と、山狩りで失われた二人の命の分を足せ』と」
テオは、しばらくその数字を見つめていた。そして、静かに言った。
「……この感謝金。全部、僕が受け取ってもいいものでしょうか」
会議室が彼を見た。
「僕は剣を振っただけです。あの村が三年耐えられたのは、騎士団が街道を守っていたから。あの被害が記録に残ったのは、村長さんが届かない書状を何十通も書き続けていたから。……僕一人の手柄じゃありません」
「では、どうなさりたいのですか」
エルナが尋ねた。
テオは深く息を吸った。
「感謝金の半分を、あの村に贈りたいです。亡くなったお二人のご家族に。それから、山狩りに出た若い衆の遺族の見舞金の手続きは、書式が難しくて、うやむやになったと聞きました。……あの手続きをやり直す費用にも使ってください」
「――手続きは、すでに動いております」
ミラが静かに口を開いた。
「あの村を訪ねた日に、わたくしがお手伝いを申し上げました。カリナ様が帝国の書式に直してくださり、代理署名の規定を使って、先月、見舞金が届いております。ご家族から、お礼の書状も」
テオが、はっと顔を上げた。
「……知りませんでした」
「言わなかったのです」
ミラは微笑んだ。
「あなたが報酬を受け取る前に聞けば、きっと今日のようにおっしゃると思いましたから。……先に済ませておきました」
テオは、しばし言葉を失い、それから深く頭を下げた。
「ありがとうございます。……では、感謝金の半分は、村のこれからのために。井戸の修繕でも、街道の灯りでも。村長さんに決めていただきたいです」
「承知いたしました」
カリナが書き取った。
「『寄贈。使途は、受け入れ側の判断に委ねる』。……第七十一条の書き方です。贈る側が使い道を縛らない。あの条文が、こんなに早く役に立つとは」
最後の署名を終えたとき、テオの手は少し震えていた。一年半。魔獣を討ってから、報酬を受け取るまでの長い道。
「……ライルさん」
彼は、ぽつりと言った。
「僕、報酬をもらったら、うれしいだけだと思ってました。でも今、いちばんうれしいのは――この書類が三枚で済んだことです。次に誰かが国境で剣を抜いても、もう一年半は待たなくていい。それが、いちばんうれしいです」
ライルは、その若い勇者の肩を叩いた。三年前、地下二階で、自分はこう怒鳴った。世界を救ったんだぞ、と。この若者は、報酬を受け取るその日に、次の誰かの書類の枚数を喜んでいる。
「――お前、いい勇者になったな」
「まだまだです」
「いや」
ライルは笑った。
「剣の腕の話じゃない。手を引ける勇者になりたいって言ったろ。……もう、なってるよ」
受け取りの金貨は、その日、王国の金庫から正式に支払われた。三年前、ライルが、たった金貨二百枚の立替のために、十七枚の様式と格闘した、あの財務課から。
「――金額の確認をお願いします」
窓口の係が袋を差し出す。
テオは、それを両手で受け取り、しばしその重みを確かめた。
「……重いですね」
「一年半分の重さです」
エルナが微笑んだ。
「そして、この重みの半分は村へ参ります。それも正しく記録されます」
帰り支度の途中、フェルゼンがぶっきらぼうに言った。
「――さて。王国へ戻るぞ。留守を預けた財務課が、どうなっておるか。ヴァロの代わりの若手が様式を間違えておらんか、心配でな」
「課長、四十三年ぶりの旅はいかがでした」
エルナが尋ねると、老人は、しばし国境の空を見上げた。
「……悪くない。悪くないが、腰が限界だ。次の条約は、お前たちでやれ」
その言葉に、一同は笑った。世界で一番地味な二度目の冒険は、ついに、そのすべての勘定を締めたのだった。あとは、帰るだけ。――王都の地下二階へ。
少し見やすくしてみました




