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勇者、経費で落ちません  作者: みき
第2幕 国際編

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105/110

第105話 旅人の経費条約、調印。二つの国の判が、一枚の紙に並んだ

『旅人の経費条約』全九十六条。調印の日は、国境のあの行政都市に定められた。どちらの都でもなく、どちらにも近い土地で。それは、起草の初日に、エルナとカリナがそろって譲らなかった、たった一つの条件だった。


 当日の朝、会場になった市庁の大広間は、驚くほど簡素だった。玉座も天蓋もない。中央に長い卓が一つ。その上に、二部の条約書。王国式の写しと、帝国式の写し。中身は同じ。書式だけが違う。それが、この条約の精神そのものだった。


 王国からは国王が、帝国からは皇帝が、それぞれ御名を記すために来ていた。だが、その両陛下より先に、卓に呼ばれた者たちがいた。「――起草にあたった実務の者を前へ」皇帝の言葉に、十数人が進み出た。エルナ。カリナ。ヴァロと帝国主計局の若手二人。ザイデル。メルツ。フェルゼン。ハンナとボルクと、帝国の二人の局長。ロッツェ卿は、退官の身で傍聴席にいた。


「この条約は、余が結ぶのではない」皇帝は静かに告げた。「そなたらが一年半、卓を挟んで結んだものである。余と国王陛下は、それを承認するに過ぎぬ。……ゆえに、御名の前に、そなたらの名を記させよ。起草者として」


 前例のない扱いだった。ヴァロが震える手で、条約書の末尾に名を記す。ザイデルが几帳面に。メルツが誇らしげに。ハンナが豪快に、ボルクが神経質に。フェルゼンは、四十年、判を押し続けたその手で、ゆっくりと。そして、最後に、エルナとカリナが並んで筆を取った。


「――エルナ様。お先にどうぞ」「いえ。同時に参りましょう」二人は顔を見合わせ、うなずき、同じ瞬間に筆を下ろした。王国式の写しにはエルナが先に。帝国式の写しにはカリナが先に。どちらの国も二番目にならない書き方だった。それは、条約の九十六条のどこにも書かれていない、けれど、この条約のいちばん大切な作法だった。


 両陛下の御名と御璽が記されると、大広間に静かな拍手が起きた。それは、勝利の歓声とはまるで違う音だった。誰も勝たなかった。誰も負けなかった。ただ、一枚の紙の上に、二つの国の判が並んだ。ライルは末席から、その光景を見つめていた。三年前、地下二階で自分がなくした、たった一枚の領収書。その一枚が、ここまで来た。


 式のあと、グラーツ伯爵がライルに歩み寄った。「――勇者どの。貴族院は満場一致で承認した」「聞きました。閣下のお力添えと」「わしは、あの第九十一条を読み上げただけよ」伯爵は、ふん、と鼻を鳴らした。「二百年、往来していた民の話をな。……議員の半分が泣いておった。誰の家にも、祖父か曾祖父が国境を越えた話があるのだ。わしと同じでな」


 彼は、少し間を置いて続けた。「一つ、頼みがある。……あの宿の名は、何と申したか」「灯火屋です」「うむ。この条約の写しを一部、その宿に贈らせてもらいたい。帝国貴族院の名において」老貴族は、ぶっきらぼうに言った。「二百年、名も記されなかった行商人の代わりに、礼を言いたいのだ。……遅すぎるがな」


 テオも、末席から名を記すよう呼ばれた。「僕は、条文を一つも書いていませんが」「お前の問いが、三つの条文を動かした」ライルが背中を押した。「按分の話。獣害と災害の話。二重課税の話。……全部、お前が『それって、村の人にはどう違うんですか』って聞いたところから動いたんだ」テオは、しばしうつむき、それから緊張した手つきで名を記した。『勇者テオ。討伐、当事者として』。皇帝が、その一行を見て、静かにうなずいた。「――良い書き方だ。功を誇らず、事実だけを書いた」


 その晩、市庁の庭で、簡素な祝いの宴が開かれた。国境の市から商人たちが樽を担いで駆けつけ、両国の役人たちが入り混じって杯を交わした。ハンナと獣害局長が肩を組んで、獣の足跡の話で盛り上がり、ザイデルと退官したロッツェ卿が、紙の透かし方を語り合っている。「――なんつうか」クロウが、しみじみと言った。「役人の宴って、こんなに地味で、こんなに楽しいもんなのか」「三年前のあんたなら、逃げ出してたわね」セリカが笑った。


 庭の隅で、ライルとエルナは並んで星を見ていた。「――終わったな」「はい。……いえ、始まったのかもしれません」エルナは静かに言った。「条約は、結んだその日から守られ続けねばなりません。九十六条を実際に回すのは、これからです。国境の窓口。市の帳場。役所の机。……そこで毎日、誰かがこの条文を使う。使われて、はじめて条約は生きます」


「……あんたは、ほんとに変わらないな」ライルは笑った。「調印の夜に、明日の心配か」「わたしの務めですので」「ああ。それでいい」彼は夜空を見上げた。「なあ、エルナさん。俺は剣を置いてから、ずっと思ってたんだ。世界を救うって、どういうことか。……たぶん、こういうことだ。誰かが卓を囲んで一年半、条文を書く。その条文のおかげで、どこかの宿の主人がまけた銅貨五枚が、ちゃんと記録に残る。……派手さはないけど、これがいちばん確かだ」


 エルナは答えずに、ただ隣でうなずいた。庭の向こうから、賑わいが聞こえてくる。国境の上に、二つの国の笑い声が混じり合っていた。世界で一番地味な二度目の冒険は、そのいちばん静かな勝利の夜を迎えたのだった。剣は一度も抜かれなかった。血は一滴も流れなかった。それでも、これは確かに二つの国を救った、一つの戦いの終わりだった。

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