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勇者、経費で落ちません  作者: みき
第1幕 国内編

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第10話 十七枚を書き上げた勇者、ついに課長フェルゼンの机の前に立つ

 財務課に通うようになって、十日が過ぎていた。


 その朝、ライルは、ついに最後の一枚――十七枚目の様式の、最後のマス目を埋めた。馬車賃から始まり、宿泊費、薬代、武具の修繕費、そして山小屋の食料の弁済予定まで。三か月の旅の、ありとあらゆる出費が、エルナの手を借りて、一枚残らず紙の上に書き起こされたのだ。それは、魔王を倒したときとは、まったく種類の違う達成感だった。剣ではなく、羽根ペンで成し遂げた、地味で、長い、戦いの記録。


「……終わった」ライルは、インクで真っ黒になった指を見つめた。「全部、書いた」


「お疲れさまでございました」エルナは、十七枚の束を、きれいに揃えた。「これで、書類は完成です。あとは――特例申請として、フェルゼン課長の決裁を受けるだけ」


 その一言で、財務課の空気が、すっと引き締まった。クロウもセリカもミラも、誰もが息をのんだ。ここまでの道のりは、すべて、この瞬間のためにあった。期限を過ぎた申請を、四十年間ただの一度も特例を認めなかった男に、認めさせる。それは、魔王城の門をくぐるときと、同じだけの緊張があった。


 エルナは、十七枚の束を持って、部屋の最奥へと進んだ。ライルも、その後ろに続く。紙の山の向こう、ひときわ大きな机の前に立つと、白髪の男は、顔も上げずに判を押し続けていた。とん、とん、と一定の間隔で響く、その乾いた音。男のまわりだけ、時間の流れが違うようだった。


「課長」エルナが、静かに声をかけた。「勇者ライル様の、経費精算。特例事由による期限後申請でございます。ご決裁を、お願いいたします」


 判を押す手が、止まった。


 フェルゼンは、ゆっくりと顔を上げた。針のように細い眼鏡の奥の目が、まずエルナを、それからライルを、そして、机に置かれた十七枚の束を、順に見た。その視線には、敵意も、好意も、何もなかった。ただ「書類が、そこにある」という事実だけを見ている、乾いた目だった。


「……特例申請か」フェルゼンの声は、低く、しわがれていた。「四十年で、わしは一度も認めたことがない。知っておるか」


「存じております」ライルは、まっすぐにその目を見返した。「だが、見てくれ。その十七枚は、嘘ひとつ書いていない。覚えてないところは覚えてないと書いた。あいまいなところは、あいまいなままにした。三か月の旅を、できる限り正直に、紙にした。――頼む。読んでくれ」


 フェルゼンは、答えなかった。ただ、十七枚の束を手に取ると、一枚目から、ゆっくりとめくりはじめた。


 それは、恐ろしいほど丁寧な、検分だった。一行ずつ、指でなぞるように読んでいく。日付の整合を確かめ、金額の合計を暗算し、但し書きの一字一句に目を走らせる。ときおり、ある欄で指を止め、しばらく考え込む。そのたびに、ライルの心臓は跳ねた。何か、不備を見つけられたのか。一点でも穴があれば、この男は容赦なく突き返す。エルナが、そう言っていた。


 財務課の誰もが、息を殺して、その検分を見守っていた。とん、という判の音も、今は止んでいる。聞こえるのは、フェルゼンが紙をめくる、かさり、かさり、という音だけ。十七枚を読み終えるのに、男は、たっぷり半刻をかけた。その半刻は、ライルには、魔王との戦いより長く感じられた。


 やがて、フェルゼンは、最後の一枚を読み終えた。束を、机に置く。そして、ぽつりと言った。


「……書類としては、よくできておる」


 ライルの胸に、希望が差した。だが、フェルゼンの言葉は、そこで終わらなかった。


「だが、書類が正しいことと、特例を認めることは、別だ」フェルゼンは、眼鏡を押し上げた。「特例とは、規程の敗北だ。期限を過ぎた申請を認めれば、こう言う者が必ず出る。『あの勇者は認められた。ならば、わしの遅れも認めろ』と。一度認めれば、期限は意味を失う。期限が意味を失えば、規程そのものが崩れる。――わしは、それを許せん」


「それは……」ライルは食い下がろうとした。だが、フェルゼンは、手で制した。


「最後まで聞け」老人の声は、静かだった。「だからこそ、特例には、誰もが納得する『理由』がいる。『大変だった』では、足りん。『魔王と戦っていた』も、足りん。なぜなら、勇者とは、もともと、そういうものだからだ。――わしが聞きたいのは、ただ一点。お前は、なぜ、期限内に申請できなかった。物理的に、不可能だったのか。それとも、ただ、忘れていたのか」


 ライルは、言葉に詰まった。正直に言えば――忘れていた。しおりは焚き火にされ、出張所には気づかなかった。期限のことなど、頭の片隅にもなかった。それが、本当のところだ。ここで「不可能だった」と嘘をつけば、あるいは通るかもしれない。だが、この十七枚は、嘘ひとつ書かずに作り上げたものだ。最後の最後で、嘘をつくわけにはいかなかった。


「……忘れて、いた」ライルは、正直に言った。背後で、クロウが「ばか、なんで正直に」と小さくうめいた。だが、ライルは続けた。「期限のことは、頭になかった。しおりも、なくした。出張所にも気づかなかった。全部、俺の落ち度だ。――でも、ひとつだけ言わせてくれ。俺たちは、期限のことを考える代わりに、世界を救うことを考えていた。それが言い訳になるとは思わない。でも、嘘はつきたくない。忘れてた。それが、本当だ」


 財務課が、静まり返った。エルナが、わずかに目を見開いた。正直すぎる答え。これでは、特例の理由にならない。万事休すか――誰もが、そう思った。


 セリカが、思わず一歩前に出かけた。「待ってください、ライルは本当は――」何か庇おうとしたのだろう。だが、ミラがその袖を、そっと引いた。「セリカさん。いけません。ここで嘘の言い訳を足せば、ライルさんが守ろうとした十七枚が、台なしになります」セリカは、唇を噛んで、足を止めた。仲間たちもまた、ライルの正直さの意味を、痛いほどわかっていた。世界を救った旅で、ただ一度も嘘の剣を抜かなかった男だ。最後の精算で、嘘のペンを握るわけにはいかないのだ。


 フェルゼンは、しばらく、ライルの顔を、じっと見ていた。その乾いた目の奥で、何かが、かすかに動いたようだった。そして、老人は、ふっと、息を吐いた。


「……正直な男だ」フェルゼンは、つぶやいた。「嘘をつけば通ったかもしれん場面で、忘れていた、と言うか。――面白い」彼は、ペンを取り、何かを書きつけはじめた。「だが、正直さは、特例の理由にはならん。規程に、『正直者は救済する』とは書いておらん」


 ライルの肩が、がくりと落ちた。やはり、駄目か。


「――そこでだ」フェルゼンは、書く手を止めずに続けた。「お前に、ひとつ、宿題をやろう。お前が期限を過ぎたのは、出張所の場所を知らなかったからだ。ならば、なぜ知らなかった? しおりを、なくしたからだ。なぜ、なくした? ――その『なぜ』を、とことん突き詰めてみろ。お前一人の落ち度ではない、本当の理由が、その先にあるかもしれん。それを、書類で示せたなら――わしは、考え直してやってもいい」


 ライルは、はっと顔を上げた。突き返された。だが、扉は、完全には閉じていない。四十年、特例を認めなかった男が、初めて「考え直してやってもいい」と言ったのだ。エルナが、隣で、小さく息をのむのがわかった。


「……わかった。やってみる」ライルは、十七枚の束を抱え直した。新たな宿題を背負って。だが、その背中は、来たときより、ずっと軽かった。道は、まだ続いている。ならば、歩くだけだ。フェルゼンは、もう何も言わず、また、とん、と判を押しはじめていた。

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