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鱗に映る祭りの夜

竜鱗を読む者は、そこに映るものの全部を信じてはいけない。


エルネが最初に教わったのは、その一点だった。


閲覧台の上に置かれた淡金の鱗は、角度を変えるたびに鈍い光を返す。祭りの夜を見たと言われても、見慣れた者にはまだただの素材にしか見えない。エルネは丸眼鏡の位置を直し、細い金具で鱗の縁を持ち上げた。


「息、かけないでください」


向かい側で覗き込もうとしていたナギが、素直に少し下がる。従うところだけは扱いやすい。


窓は開けていないのに、部屋には乾いた山風の気配があった。錯覚ではない。記録の濃い鱗ほど、触れた空気の癖を薄く返してくる。


エルネは灯り板を近づけ、表面の層を順に追った。


淡い筋が幾重にも重なっている。上層は擦れているが、中ほどに急に密度の高い部分があった。ひとところに灯が集まり、人が繰り返し動き、音が輪になると、こういう残り方をする。


「祭礼履歴です」


彼女は誰を見るでもなく言った。


「しかも一度きりじゃない。繰り返し記録されています。年ごとに少し位置がずれているから、広場の周囲で屋台か鍋の置き場所が変わっていたはず」


ナギの目が丸くなる。リラは腕を組んだまま、面白くなさそうな顔で興味だけは隠せていなかった。


「そこまで分かるの」


「そこまでしか分かりません」


エルネは答えた。


「村名は残りません。歓声も意味までは拾えない。読む人が勝手に補うと、そこから駄目になります」


リラが小さく鼻を鳴らす。


「慎重ね」


「鱗が喋るんじゃないです。喋るのは人です」


それだけ言って、エルネは次の層へ視線を移した。


祭礼層の端。そこに、ごく細い割れ目が走っていた。自然な乾きならもっと散る。これは一点から押されている。意図的に圧をかけられた痕だ。


「欠損があります」


今度はヨルダが顔を上げた。


「劣化ではなく?」


「違います。外側から抑えて、特定の帯だけ荒らしてる。上手くはありませんけど、祭礼の外周にあったものを見えにくくしたかったんだと思います」


「外周?」


ナギが身を乗り出す。


「道。看板。柱。行列が出入りする線です」


エルネは金具の先で、傷の縁をなぞった。


「広場の中心を消したいなら、ここはこう割れません。消したいのは、村がどこにつながっていたかです」


ナギが息を呑む音がした。


祭りがあったかどうかより先に、そこへ至る線を消す。


それは村を壊すより執拗だ。帰ろうとする者を、あとから締め出すやり方だった。


その言葉に、リラが机の端の古地図を引き寄せた。開いた紙には山裾の地形と河の折れだけがあり、問題の空白へ続くはずの一本だけが、途中で削り取られている。


「こっちも同じ」


彼女の指が削り跡を押さえる。


「地名そのものより先に、道が消されてる」


ナギは黙って、鱗と地図を見比べていた。彼の沈黙は、言葉を探している時と違う。欠けたものの形を頭の中で撫でている時の顔だと、エルネはもう知っている。


「村へ行けなくすれば、村は消える」


ナギがぽつりと言った。


「名が残っても、道がなければ、そのうち誰も辿り着けなくなる」


ヨルダは依頼書の隅を軽く叩いた。


「だからまず、現地へ向かう」


そこへ、前室の扉が勢いよく開いた。


「向かうのはいいけど、雪崩れ跡みたいな山道を記録袋ひとつで越える気じゃないでしょうね」


入ってきたのはリラだった。銀灰の髪を後ろへ払いながら、巻いた紙筒を二本、机へ置く。片方は測量用の薄板、もう片方は旧道の写しだ。


「馬は?」

とヨルダが聞く。


「一頭借りました。荷を積む用です。人は歩くほうが早い場所がある」


「当然みたいに言わないでください」


エルネは思わず言ったが、リラは気にしない。


「あなたは荷台でもいいわよ」


「揺れるのは嫌です」


ナギが間に入ろうとして、しかし何も言えずに口を閉じた。こういう時の彼は役に立たない。


代わりに、別の声がした。


「じゃあ歩ける飯を用意しよう」


壁際の椅子に長い脚を投げ出していたジンが、ようやく立ち上がった。いつからいたのか分からないくらい自然に部屋の空気へ混じっていたが、立つと背が高い。赤銅色の髪が灯りを返し、笑う前にまず匂いを嗅ぐ癖がある。


彼は鱗の上に顔を近づけ、ひとつ鼻を鳴らした。


「煙草の煙じゃないな。木の実を焦がした油と、塩気の弱い干し肉。山の祭り飯だ」


エルネは顔をしかめた。


「見ないで分かるんですか」


「見てるよ。鼻で」


それだけで済ませ、ジンは台所へ向かうように手を振った。


「二日ぶんでいいなら、日持ちするやつにする。道が消えてるなら、腹が減った時点で帰るしかなくなる」


ヨルダは頷き、短く全員を見渡した。


「明朝、出る。持ち帰るのは感想じゃない。証拠だ」


命令の形を取っていても、それはこの部屋にいる全員が最初から分かっていたことだった。


エルネはもう一度、淡金の鱗に目を落とす。


祭りの光は確かに残っている。


けれど、その外側だけが爪で引っ掻いたみたいに薄く荒れていた。誰かがそこを消した。火ではなく、歌ではなく、そこへ辿り着く線のほうを。


帰れないようにするために。


彼女は灯り板を伏せ、静かに言った。


「まだあります」


「何が」


ナギが聞き返す。


「この鱗。祭りの前にも何か映ってる。はっきりしないけど、行列じゃない。もっと長い線です」


リラの目つきが変わった。


「道?」


エルネは首を横に振る。


「たぶん。でも、村の道っていうより」


答えを言い切る前に、鱗の縁に走る白い傷が灯りを跳ね返した。


外周を潰した誰かは、祭りの日だけでなく、その前後の往来も見えなくしたかったのかもしれない。


山ひとつぶんの小さな隠蔽では済まない線が、そこに眠っている気がした。


「現地で確かめます」


ナギがそう言った時、もう迷いはなかった。


行くべき場所が空白のままでも、そこへ向かう理由だけは十分に揃っていた。


だがエルネは、最後まで喉に引っかかった違和感を飲み込めない。


祭りの前に残っていたあの長い線は、村人の行列にしては整いすぎていた。


まるで、何度も荷を通した街道そのものみたいだった。

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