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地図にない村からの手紙

その依頼書には、村の名が書かれていなかった。


昼の鐘が鳴り終わるころ、記録庫の空気はいつも少しだけ重くなる。


窓の細い明かりは棚の隙間に落ち、乾いた紙と古い革紐の匂いだけが部屋の底に残る。ナギは机の上に積まれた地方台帳をひとつ閉じ、指先についた紙粉を払った。今日の仕事も、消えかけた字を拾い直し、誰にも見向きされない控え書きを順番どおりに束ねるだけで終わるはずだった。


扉の向こうで、短く二度、木が鳴った。


顔を上げると、受付を兼ねた前室から支部長の声が飛んできた。


「ナギ。手が空いているなら、こっちへ」


ヨルダ・セイルは、呼びつけるときだけ名前を少し低く言う。


ナギは記録袋を脇に抱え、棚の間を抜けて前室へ出た。昼の光はそこだけ明るい。窓辺の机にヨルダが立ち、向かいには旅塵をかぶった若い女がひとりいた。黒髪を後ろで結び、両手で胸もとの包みを押さえている。立ち姿はまっすぐだったが、靴の泥は何日も歩いた色をしていた。


「この子が持ってきた依頼だ」


ヨルダが机の上の紙を顎で示した。


紙は上等ではない。何度も折り直された跡があり、端は擦り切れていた。けれど中央の一行だけは、震えを押し殺したような筆でまっすぐ書かれている。


私たちの村を、地図に戻してください。


それだけだった。


普通なら、ここで終わる依頼だった。


どこの村かも分からない願いは、台帳の入口にすら立てない。誰の手にも渡らず、保留箱の底か焼却籠の端へ滑っていく。ナギはそういう紙を、もう何枚も見てきた。


依頼人の名として、紙の隅に小さく「セツナ」とある。村名はない。地番もない。領主印もない。アーカイブギルドに持ち込まれる依頼としては、あまりに不揃いだった。


「戻す、とあるからには、載っていた時期があるんでしょう」


ナギはそう言ってから、紙の余白をひっくり返した。裏は白い。


「そのはずです」


答えた声は掠れていた。旅の疲れだけではない。長い間、同じ願いを何度も拒まれてきた人の声だった。


「でも、どこへ行っても、最初に地名を聞かれます。地名を言うと、そんな村はないって言われるんです」


「言えるんですね」


ナギが思わず聞くと、セツナの喉が小さく上下した。


「……今は、たぶん。前はもっと、はっきり言えたんです」


忘れたのではない。忘れさせられている人間の言い方だった。


ヨルダが王国地図を広げた。


羊皮紙の上には、街道も河も、村も宿場も、細い線と小さな文字で詰まっている。ナギは東西の街道沿いを追い、山裾の集落を確かめ、鉱区の周囲を見た。空白はほとんどない。あるはずのない余白が、ひとつだけ目につくまでは。


山並みの下、川がゆるく折れるあたり。そこだけ、不自然に何も書かれていない。


「ここ」


セツナの指が震えながら落ちた。


「たぶん、そこです」


たぶん。


自分の故郷に向けるには、あまりに頼りない言葉だった。けれどナギは、その曖昧さが嘘ではないと分かった。名前を呼び続けることさえ許されなければ、輪郭から先に削れていく。


「王国台帳は」


ヨルダが言うより早く、ナギは後ろの棚から近隣村落の控えを取り出した。村名索引、徴税控え、墓地認可一覧、祭礼申請。どれを開いても、その空白に対応する名は出てこない。


存在しない。


書き方を変えれば、そう記されているのと同じだった。


セツナは目を伏せたまま言った。


「村に帰ったことのある人も、もうほとんどいません。帰ろうとしても、道が見つからないんです。けど、祭りの歌だけは、まだ皆が覚えていて」


その言葉に、ナギの指が止まった。


祭りの歌は残るのに、村名は残らない。


記録より先に身体が覚えるものがある。歩幅。匂い。食べ方。歌の節回し。紙から消えても、人のほうに残るものだ。


ヨルダは腕を組み、セツナを見た。


「正式な受理には足りない。だが、足りないまま捨てるには、残り方が妙だ」


それから、ナギへ視線を移す。


「閲覧室の保留箱を見てきなさい。周辺一帯の竜鱗が何枚か回ってきていたはずだ」


保留箱。


売り物にも鑑定待ちにもならず、行き場をなくした竜の抜け鱗が入れられる箱だ。土地の名と結びつかないまま眠ることも多い。


ナギはうなずき、奥の小部屋へ向かった。鍵を外し、蓋を持ち上げると、薄い鱗が布に包まれて並んでいる。青、銀、煤けた白。指先に乗るほどのものから、掌を覆うほどのものまであった。


ひとつ、曇った淡金の鱗が目に留まった。


理由はない。けれど、視線だけがそこに引かれた。


布ごと持ち上げ、窓際へ寄る。息を整え、表面に指を触れた。


冷たい。


次の瞬間、暗い部屋も窓の明かりも消えた。


夜の火がいくつも揺れている。


人影が輪になり、その中心で布が翻る。土を踏み鳴らす音。高く細い笛。煮立つ鍋から立つ湯気。誰かが歌い出し、それを追うように別の声が重なる。山に囲まれた小さな広場の向こうには、確かに家々があった。低い屋根。石を積んだ井戸。祭具を掲げる木柱。


村だ、とナギは思った。


思ったとたん、火の輪の外を横切るものが見えた。


祭りの見物人ではない。広場へ入ってくる、灯りの連なりだ。


長い。荷を引く列みたいに長い。


その列が村へ入る直前だけ、白く掠れて見えなくなる。


次の瞬間、光景がぶつりと切れた。


気づけば、自分は鱗を握ったまま膝をついていた。


ヨルダが前室から一歩踏み込み、短く問う。


「何を見た」


ナギは息を継いだ。喉の奥にまだ笛の音が残っている。


「祭りです。山の村です。火があって、歌があって、人がいました」


ナギは息を継ぎ、続けた。


「それと、村へ入る灯りの列がありました。長い道です。でも、手前だけが削られて見えません」


静まり返った前室で、セツナだけが顔を上げた。泣く手前の人間の目は、喜ぶにも怯えるにも似ている。


「やっぱり」


その声は、ようやく居場所を見つけたみたいに小さかった。


セツナの指先が、胸もとの包みを強く握る。


「昔は、塩車が通ってたんです」


こぼれた言葉に、ナギが顔を上げた。


「塩車?」


「……すみません。今、口が勝手に」


村の名は言えないのに、村へ来た荷のことは言える。


その歪さが、かえって本物だった。


ヨルダは鱗を見つめたまま、机の上の受理印に手を置いた。


「依頼を仮受理する」


印が紙に落ちる音は軽い。だがナギには、それが古い扉の鍵がひとつ外れる音に聞こえた。


村の名はまだない。


けれど、存在しないはずのものが、確かにそこにあった。


しかも消されたのは、村そのものより先に、そこへ帰るための道かもしれなかった。

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