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削られた道の先へ

夜明け前の馬具は、触るだけで冷たい。


リラは荷綱を締め直し、息を白くした。借りてきた栗毛は気の長い馬だったが、記録袋、測量具、鍋、寝具まで積めばさすがに迷惑そうな耳をする。けれど文句を言わないぶん、人間より上等だ。


王都外れの石畳は、まだ薄暗い。市場が起きる前の時間だけ、街は広く見える。門の脇ではヨルダが旅券をまとめ、ジンが携行食を布包みに分け、エルネは荷の一番揺れない場所を本気で吟味していた。


「馬に乗ればいいのに」


リラが言うと、エルネは眼鏡の奥から睨み返した。


「揺れると鱗を落とします」


「落とさないように持てば」


「あなたの地図筒のほうが落ちそうです」


言い返す速さだけは元気だ。リラは肩をすくめ、門の向こうへ視線を向けた。


街道の起点は朝露で白く、遠くの丘はまだ青い。問題の空白へ至る旧道は、現行地図では途中から山沿いの細線に吸われている。だが昨夜、古写しを重ねた時、削り跡の下にうっすら別の角度が覗いた。もっと短く、もっとまっすぐ山裾へ向かう線だった。


「リラ」


呼ばれて振り向くと、ナギが紙片を差し出していた。依頼書の写しだ。


「道中で見直すかもしれないから」


「あなたが持ちなさいよ。記録官でしょう」


「持ってます。これは予備」


彼はそういうところだけ妙に手堅い。昨夜のうちに、地図写しも依頼書も、台帳の空欄箇所も全部複写していたらしい。剣を持てと言われたら困った顔をするくせに、紙が絡むとやることが早い。


ヨルダが旅券を閉じた。


「ここから先、正式な街道を外れたら、記録は自分たちで残しなさい」


「分かっています」


ナギが答える。


「帰ってきたら、見たものを全部報告します」


ヨルダは一拍置き、珍しく少しだけ声を柔らかくした。


「全部は要らない。消されたものを戻すのに必要な分を持ち帰りなさい」


リラはその言葉を胸のどこかで反芻した。


必要な分。


線を引く時、いつもそこが最も難しい。見えるものを全部地図に乗せることはできない。だが、削ってはいけない線がある。誰かが帰るための線だ。


門を出ると、石畳はすぐ土道へ変わった。


朝のうちは歩きやすい。両脇には麦の芽が低く伸び、湿った土の匂いが靴底へまとわる。王都から離れるにつれ、道標は新しいものほど大きく、古いものほど低い位置で削れていた。何度か休みを入れ、昼を回るころには街道は川沿いへ折れた。


「こっちじゃない」


最初に言ったのはナギだった。


彼は現行地図と古写しを見比べたまま、道の分岐で足を止める。目の前の街道は広い。荷車がすれ違える幅があり、轍も深い。だが古写しの薄い線は、川を追わず、もっと早く山へ寄っていた。


リラは地形を見渡した。柳の根、斜面の傾き、岩の露出。確かにおかしい。人が長く歩いた道は、たとえ消されても土地に癖を残す。


「向こう」


彼女は藪の先を指した。


一見ただの斜面だが、草丈が途中だけ揃って低い。踏み固められていた場所に新しい土が乗ると、こういう残り方をする。


ジンが先に入り、枝を払った。


「荷は通る。馬はぎりぎり」


エルネは嫌そうな顔をしたが、文句より先に鱗箱を抱え直した。そういう順番の正しさは信用できる。


藪を抜けると、そこに道の痕があった。


完全な道ではない。土は崩れ、石は半ば埋まり、左右から雑木が迫っている。けれど斜面に対して一定の幅が保たれ、雨水の逃げる溝跡まで残っていた。


「削られてる」


ナギが膝をつく。


道そのものが壊れたのではない。表層だけを何度も崩して、使えなく見せた跡だ。しかも要所だけ。手間を惜しまない意志がそこにあった。


リラは少し先へ進み、土に埋もれた石柱の頭を見つけた。しゃがみ込み、手袋のまま泥を払う。刻印の輪郭が現れた瞬間、息が止まる。


村名までは読めない。


だが、石柱の正面だけが刃物で浅く削られていた。方角を示す脇の線は残っている。消したいのは道標そのものではなく、そこに記された名だった。


「見て」


呼ぶと、ナギが駆け寄った。彼は削り跡へ指を触れようとして、触れる前に止めた。


「読めそう?」


「まだ無理。でも、わざわざ名だけ削ってる」


「ええ。しかも古い石よ。道が先にあって、あとから村が消えたんじゃない。ここは最初から誰かが通う線だった」


背後で、ジンが低く声を上げた。


「匂いが変わる」


振り返ると、彼は少し先の風を嗅いでいた。山から吹き下ろす冷気に混じって、焦げた木の実みたいな甘さがある。


「祭り飯の残り香に似てる。古いけど、完全には消えてない」


エルネは道標の脇へしゃがみ、削り面を覗き込んだ。


「石粉が新しすぎます。全部が昔の傷じゃない」


「どういう意味?」

とナギ。


「一度削ったあと、もっと後になってからまた撫でてる。最近とまでは言いませんけど、放置じゃない。誰かが今もここを見に来てる」


風が枝を鳴らした。


人の通らなくなった旧道のはずなのに、見張るみたいに手が入っている。


リラは道の先、山裾に飲まれていく細い線を見た。胸の奥で、地図が組み替わる音がする。この先にあるのは、ただの消えた村ではない。消し続けられている何かだ。


ナギが立ち上がった。


「今日は行けるところまで進もう」


「明るいうちに着けると思う?」


リラが聞くと、彼は少しだけ迷ってから首を振った。


「分からない。でも、止まってもここでは眠りたくない」


その判断は正しかった。


道標の削り跡よりも、エルネの言った「最近また撫でている」という言葉のほうが、肌に冷たく残る。忘れ去られた場所ではない。忘れられたふりをさせられている場所だ。


ジンが馬の手綱を引き、低く笑った。


「じゃあ歩こう。腹が減るころには、何かもう一つ見つかる」


彼の軽さは、こういう時には助かる。重い空気がそのまま沈み切る前に、先へ引っ張ってくれる。


リラは石柱を最後に一度だけ振り返った。


削られた名の白さが、夕方の薄い光を拾っている。


道がここにある限り、完全には消えていない。


そう思った瞬間、斜面の上で小さく石が跳ねた。


誰かいる。


見上げた時にはもう影はない。ただ、緩んだ土だけが細く崩れ落ちてきた。


ナギも同時に気づいたらしく、声を潜める。


「急ごう」


山の空気は冷え始めていた。


その時、ナギがまた足を止めた。


道の端、崩れた土のあいだから、白いものがのぞいていた。


リラがしゃがみ、指先で掘り出したのは割れた木札だった。雨を吸って黒ずんでいたが、片面だけはまだ読める。


そこには、たった二文字だけ残っていた。


帰村。


誰かが村へ帰るために持っていた札だ。


けれど、その下に続くはずの名は刃物で削られていた。


エルネが木札を受け取り、表面を見つめる。


「これ、道標より新しいです」


「どれくらい」


ナギの声が低くなる。


「何十年も昔のものじゃありません。村が消えたあとも、帰ろうとした人がいた」


風が斜面を抜け、木札のささくれを鳴らした。


帰ろうとした誰かがいる。


そして、その名まで消す手が、ここまで届いていた。


残された道の先で、消されたはずの村が、まだ誰かに見張られている。

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