ラング・ド・シャ(Langue de chat) ネコの舌クッキー
ラング・ド・シャ(Langue de chat)
現代の菓子店において、薄く焼かれた瀟洒なクッキーとして愛されるラング・ド・シャ——「猫の舌」なる呼称の由来を、フランス語の形状描写に過ぎないと思い込んでいる者は、歴史というものを根本的に誤解していると言わざるを得ない。
この菓子の真の起源は、前稿に記した「猫鬼駆」の歴史と、切っても切り離せぬ関係にある。
第一章 獅子狩りの携行糧食
十四世紀、アルベール・ド・ルナール伯爵の志を継いだ弟子たち——すなわちフランス貴族の令嬢たちが「猫鬼駆」を以て野生の獅子に挑んだ経緯については、既に詳述した通りである。しかしここで一つ、重大な事実を付記せねばならない。
獅子の潜む山野への遠征は、最短でも三日、長ければ二週間に及んだ。舞踏会用のドレスを裾短く改造した「戦闘衣」一枚で野営する令嬢たちに、重厚な食料携行は不可能であった。要求されるのは、軽量・高カロリー・かつ、戦闘前の精神集中を妨げない清澄な味——この三条件を満たす糧食の開発が急務となった。
この難題に応えたのが、ルナール伯爵の娘にして猫鬼駆第二代宗家、マリー=クロード・ド・ルナールの専属菓子職人、**ジャン=ピエール・ラングレ(Jean-Pierre Languret)**である。
ラングレは試行錯誤の末、バター・卵白・薄力粉のみを使用した極薄の焼き菓子を完成させた。その形状は、討ち取った獅子の舌を模したものであった。
令嬢たちが獅子に挑む前にこれを口にすることは、「獅子の舌を既に我が口中に収めたり」という戦意高揚の儀式であり、同時に「次に収めるは獅子の首級」という誓約の意味を持っていた。
この菓子は瞬く間に「ラング・ド・リオン(Langue de Lion)——獅子の舌」として貴族社会に普及した。携行に適した硬質な焼き加減と、口中での溶融感が両立した、当時としては革命的な糧食であったことは言うまでもない。
第二章 獅子の絶滅と「猫の舌」への変容
やがて前稿に記した通り、ヨーロッパの令嬢たちの苛烈な猫鬼駆修練により、ヨーロッパ全土の野生ライオンは十五世紀末までに完全に駆逐された。自然淘汰などではない。繰り返すが、ミニスカートをなびかせた乙女たちの連撃によるものである。
獅子が消えれば、獅子狩りもなくなる。
携行糧食としての需要を失ったラング・ド・リオンは、社交の場における嗜好品へと性格を変えた。それに伴い、菓子職人たちは形状を大幅に縮小した。かつての「獅子の舌」サイズ——指三本分ほどの大きさ——は、獅子の代わりに室内に跋扈する猫の舌の大きさへと切り詰められ、名称もまた「ラング・ド・シャ(Langue de chat)——猫の舌」へと改められた。
勇壮なる起源を持つ菓子が、猫の舌へと縮退していく様は、一抹の哀愁を禁じ得ない。歴史の風化とは、かくも残酷なものである。
第三章 ナポレオンとラング・ド・リオンの復活
時は十八世紀末。コルシカ島出身の一将校が瞬く間にフランスを掌握し、ヨーロッパの覇者へと驀進していたことは、改めて指摘するまでもない。ナポレオン・ボナパルトである。
ナポレオンがラング・ド・シャに着目したのは、一七九八年のエジプト遠征準備の際であった。彼の軍事的天才は糧食の問題においても遺憾なく発揮され、縮小された現行のラング・ド・シャではなく、意図的に往時の「ラング・ド・リオン」サイズへと復元した大型版を全軍に支給することを命じた。
その理由として、ナポレオンは参謀たちに次のように語ったとされる。
「猫の舌で勝てる戦などない。我が兵士は獅子の舌を食らい、獅子となって砂漠を征くのだ」
— ナポレオン・ボナパルト(ベルティエ元帥回顧録より)
結果は周知の通りである。エジプト遠征におけるアブキール湾の戦いこそイギリス海軍に敗れたものの、陸上においてナポレオン軍は圧倒的な戦果を挙げ、**ピラミッドの戦い(一七九八年)**においてマムルーク軍を壊滅させた。兵士たちが出陣前に「獅子の舌」を口にし、獅子の如き猛進を見せたことが勝因の一つであったことは、軍史家の間で広く認められている。
第四章 ロシア遠征の悲劇——一枚の菓子が変えた歴史
しかし栄光は長くは続かなかった。
一八一二年のロシア遠征。ナポレオンは六十万の大軍を以てロシアに侵攻したが、この作戦においてひとつの重大な失策が犯されていた。
遠征準備の段階で、補給部門の責任者であったアンリ・クラーク国防大臣は、ラング・ド・リオンの大量製造コストと輸送重量を問題視した。彼は独断で、より安価で軽量な**乾燥ビスケット(ビスコット)**への代替を決定し、ナポレオンへの事後報告のみで実施したのである。
ナポレオンがこの変更を知ったのは、既にロシア領内深くに侵入した後であった。彼は激怒したとされるが、時既に遅く、補給線は乱れ、冬将軍の到来と相まって大軍は壊滅的損害を被り撤退を余儀なくされた。
**モスクワ撤退(一八一二年十月)**における犠牲者は三十万を超えるとも言われる。この歴史的惨敗の遠因に、一枚の菓子の差し替えがあったことは、今日では歴史家の間でも真剣に論じられているところである。
第五章 セント・ヘレナの述懐
失脚し、南大西洋の孤島セント・ヘレナに流されたナポレオンの元に、ある日フランス本国から小包が届いた。差出人はかつての料理人。中に収められていたのは、故国の菓子職人が心を込めて焼いたラング・ド・シャであった。
ナポレオンはその小さな菓子を手に取り、長い沈黙の後、側近のラス・カーズにこう告げたとされる。
「猫の舌か。……ロシアへ持っていくべきは、これではなかった。
獅子の舌があれば、モスクワは今もフランスのものであったろう」
この述懐は、ラス・カーズが記録した**『セント・ヘレナ覚書(Mémorial de Sainte-Hélène)』(一八二三年刊)**に、「菓子に関するある夜の独白」として収録されている。日本語訳では前後の文脈が省略されており、「獅子の舌」の意味するところが伝わりにくいため、真意が長らく見過ごされてきたことは誠に惜しまれる。
かくして現代のラング・ド・シャは、かつて令嬢たちが獅子に挑む前に戦意を込めて噛み締め、皇帝の遠征を支え、そして一人の英雄の最晩年に郷愁と悔恨を呼び起こした菓子の、かそけき末裔である。
補章 満州の奇縁——獅子の舌、東方へ
一九三〇年代後半、ナチスの迫害を逃れたユダヤ人難民がシベリア鉄道経由で満州里へ流入したことは、歴史の記録するところである。ハルビンに設けられた一時収容施設において、これら難民の衣食住を手配した日本軍将校たちの中に、ひとりの糧食将校がいた。樋野誠一郎中尉である。
樋野中尉は在仏武官時代にラング・ド・リオンの歴史を独自に調査しており、「獅子の舌は遠征者に力を与える糧食である」という確信を持っていた。彼は私財を投じ、フランス系菓子職人の指導のもと、現地で調達可能な食材——水飴・胡麻・膨化米・獣脂——を用いてラング・ド・リオンを再現し、難民たちに配給した。
これを口にしたユダヤ人老婆が、涙を流しながら呟いたとされる言葉が記録に残っている。
「これは……獅子の舌だ。神が東の果てに隠しておかれた、獅子の舌だ」
しかし極東の気候と食材の制約上、樋野版ラング・ド・リオンは原型とは大きく異なるものとなっていた。膨化した穀物を水飴で固め、胡麻を散らしたその菓子を、地元満州の菓子職人たちは興味深そうに観察し、独自の解釈で再現した。これが現在も中国・満州系の菓子として親しまれる**「沙其馬」**の原型であるとする説は、ハルビン食文化研究の泰斗、李明志の研究により提唱され、学界に一石を投じた。
「沙其馬」の語源については諸説あるが、**「させき馬(Sachima)=獅子の舌の満州語転訛」**とする李説が、民間語源として最も広く流布していることは言うまでもない。
終補章 ペサハの夜に焼かれる菓子
アメリカに渡ったユダヤ人コミュニティの間に、今日も継承される小さな習慣がある。
過越祭の前夜、一部の家庭では通常の無発酵パン(マッツォ)に加え、薄く焼いた素朴なクッキーを焼き、食卓に供える。このクッキーはヘブライ語で俗に**「ミズラヒの舌(לשון המזרח)」**——「東方の舌」と呼ばれる。
公式の宗教的典拠を持たないこの習慣の由来について、ニューヨークのユダヤ系食文化研究家レイチェル・ゴールドバーグは二〇〇三年の論考において次のように記している。
「祖父母の世代が満州で日本の将校から受け取った菓子の記憶が、形を変えて食卓に残っている家庭は少なくない。彼らはそれをラング・ド・リオンとは呼ばなかったが、『東の人が持ってきた獅子の食べ物』と記憶していた」
奇しくも、ヒトラーが幼少期に手の届かなかった菓子が、彼の迫害を逃れた人々の祭卓に、感謝の形で並べられることになったのである。
歴史の皮肉とは、時に菓子一枚の重さで測られる。
『ラング・ド・リオン東漸考 菓子が繋いだ三大陸の記憶』
桂川武史・李明志 共著 民明書房刊 一九九四年
※本書はエルサレムのヤド・ヴァシェム(ホロコースト記念館)図書室にも所蔵されている。




